虫のいい日々

あぶはち取らずと言われても、極楽とんぼで過ごしたい。
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栗本薫/中島梓 展(弥生美術館)
記事を書くのが今頃になってしまいましたが、先月下旬に、弥生美術館で開催中(9月26日まで)の「栗本薫/中島梓 展 〜書くことは 生きること〜」を観に行ってきたのです。

中島梓さんご自身の演奏によるジャズピアノをBGMに、校正が入った生原稿や創作ノート、挿絵や表紙の原画、舞台劇ポスター、闘病中の記録(絶筆のページも)などが展示され、栗本・中島さんのお仕事と生涯をひととおり振り返ることができます。

やはり最初にパッと目を引くのは、「グイン・サーガ」関連の資料。関わってきた歴代のイラストレーター、加藤直之・天野喜孝・末弥純・丹野忍の四氏による美しい原画が飾られ、延々と見入ってしまいました。特に、キャンバスに油彩で描かれた末弥純さんの原画は、印刷されたものとかなり印象が違ってて新鮮。あと、じつは私はグインは途中で挫折してるので、外伝17巻(2002年)、正伝88巻からイラストを担当している丹野忍さんの絵には印刷物でもあまりなじみがなく、しかし今回じっくり拝見して、すごくいいなあと思いました。

そして、初期の頃からの創作ノート! こんなふうにいろいろ書き散らしながら、だんだんとあの世界が形作られていったんだなあ、と。

個人的には、いちばん初期のときのメモで、イシュトヴァーンのキャラ設定がすでに「グインの宿敵」となっていたのが、改めてずしーんと来ました。初登場時のイシュトは将来への希望がキラキラしている陽気な気のいい兄ちゃんで、そういう彼が、少女だった私は大好きでした。だから、のちに彼がだんだんと危ないキャラになっていくのがつらくて。だんだんとグインを読み続けられなくなっていったのは、そのせいもあったと思う。しかし栗本先生の頭の中では、イシュトがさわやか青年であった初登場時の段階で、ああなることが確定してたんだな、と。いや、分かってたんだけどね。

そのほか、小学校卒業時の担任の先生のメッセージ(「あまり本を読みすぎないように」なんて書かれてあることに親近感……子供時代にお外で元気に遊ばず本の虫だと、大人からあまりよいように言われないことがあるよね)や、中学時代に描いていたマンガ草稿なんかもありました。

デビュー前に書かれた小説が、ひとつひとつ手のひらに載るようなサイズの紙に清書され和綴じの冊子にされているのも、若い頃の栗本さんが、どれだけ自分のお話を大切にしていたかということがうかがわれて、胸がきゅーっとなる。そして、こういうものがちゃんと捨てられずに残っていることにも。

私自身が、存在は知っていたけどほとんど手を出せずにいた、いわゆる「JUNE系」の作品群に関しても、独立したコーナーが設けられて、栗本さんの『JUNE』紙面での八面六臂の活躍ぶりなどが紹介されており、このあたりはいまにして初めて知ることが多くて、非常に興味深かったです。

こうやって、改めて栗本さん・中島さんの多岐にわたるお仕事の全貌を見渡してみると、お話の内容だけじゃなく、それらに読みふけっていた中学・高校時代の自分までもが、わーっとよみがえってくる感じ。いつのまにか、追いかけることをやめてしまっていたけど、たしかに、あの頃の私にとって、栗本さんの小説は大切だった。

そしてそれは、ミステリならミステリ、ファンタジーならファンタジー、というふうに、複数の作家さんから個別に与えられるものではなかったからこそ、私にとっては意味があったように思います。ただ一人の女性から、「好き」とか「書きたい」とかいう気持ちに突き動かされて、これだけのバラエティに富んだお話が生み出されているということ。そのこと自体が、少女時代の私に、何か熱いものをくれていたのだと。

いやはや、ワープロがなかった初期の頃の、高く積み上がった手書き原稿を見ていると、これだけの分量を「手」で書くということそのものが、どれだけのエネルギーを必要とすることであっただろうか、と思ってしまいます(まあそれは、ワープロやパソコンがなかった頃のほかの作家さんにも言えることなのですが)。

さて。堀江あき子(編)『栗本薫・中島梓』(河出書房新社)は、この展覧会がおこなわれた弥生美術館の学芸員である編者が、上述の展示内容をメインに、栗本薫と中島梓の仕事を俯瞰できるよう1冊にまとめてくださったものです。

会場ではゆっくり立ち止まって読みづらかった解説文も収録されているし、展示にはなかった生前の中島さんによる評論の再録などもあり、読み応えのあるものとなっています。巻末には、全著作のリストも。


【関連記事】
 2009年5月の読んだものリスト
 後半に、栗本薫(中島梓)さんの訃報に関する記述があります。

*

Posted at 14:35 | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark
ヤスミン・アハマド監督の訃報
マレーシアの映画監督、ヤスミン・アハマドが7月25日に脳内出血で急死したというニュースを教えていただいて、呆然としてしまいました。すごくショックだし、残念。

23日に倒れて緊急手術を受けたけど、回復しなかったそうです。享年51歳……若すぎる。

彼女の作品で私が観たのは、「Sepet (2004)」、「Gubra (2006)」、「Mukhsin (2007)」の3作のみですが、マレーシアにはこんな面白い映画を撮る女性がいたんだ! と本当にびっくりしたものでした。

そもそもは、ロケ地が光良の故郷であるイポー市だったからとか、ヒロインが金城武ファンという設定だったから、というような理由で興味を持った作品群でしたが、観ちゃったら、3作とも本当にしみじみといい映画でした。

観る前は、この映画のおかげで光良の故郷の街並みが見られるよ……みたいな感じ気持ちだったけど、観たあとは、光良ファンになったおかげでこんな映画に出会えたよ、きっかけになってくれてありがとう光良! という気持ちに変わっていました。

ブログに感想を書いたのは、結局「Sepet」だけだったなあ(1回目感想2回目感想)。

あとの2作も、本当に強く印象に残ったのですが、うまく感想書けなかった。特に「Gubura」は、ものすごくいろんな要素がぎっちり詰まった映画で、お茶目で頭の回転が速い魅力的なヒロイン(「Sepet」のヒロインの成長した姿)にくらくらしつつも、非常に重苦しい展開や厳粛なシーンがたくさん含まれており、どういうふうにまとめればいいのか、分からなかった。

そして「Mukhsin」は、その前に作られた「Gubra」を語ることなくしては語れないような気がして、やっぱり感想を書きそびれた。

いまからでも途中まで書いたやつ仕上げようかなあ。しかし観たの2007年の夏だから、記憶の中で改竄されてたりして。東京国際映画祭(TIFF)のサイトにももう追悼文が載ってる。今年も上映するだろうか? その場合は「追悼特集」のように銘打たれるのだと思いますが……あ、考えると泣きそう。

ヤスミン監督の作品は、どれもすごく普遍的な感情に訴えかけてくるようなものが中心に据えられていて、だから外国人の私が観ても引き込まれるんだけど、その一方でマレーシアが舞台だからこそだなあという部分も多々ありました。

いちばん忘れられないのが、「Gubra」のなかで、ある中国系の男性が言うセリフ。一度は華人(中国系)が人口の過半数を占める隣国シンガポールに移住した彼が、それでも結局、自分が生まれたマレーシアに舞い戻ってしまう。で、彼にとってはマレーシアが紛れもない「故郷」なんだけど、

「自分はマレーシアに片思いをしているみたいだ、自分がマレーシアを愛するほどには、マレーシアは自分たち華人を愛してくれない」

みたいな意味のことを、マレー人のヒロインに向かって言うんです。

実際、去年の秋には、マレーシア与党の政治家が、マレーシア華人たち(みんな何代も前からマレーシアに住んで根を下してて、マレーシア国籍を持ってる)のことを公の場でpendatang(よそから来た移民)呼ばわりしたというニュースも読んだし(もちろん問題視される発言だったからこそニュースになったわけだろうけど、要するにマレー系の上層部の“本音”が現在もそうだってことだよね?)、進学などの面でもマレーシアでは中華系やインド系と比べてマレー系が断然有利になる制度が設けられているというようなことも知りました。

そういう国でヤスミン監督は、マレー系マレーシア人として生まれ、マレーシアという多民族の地を愛して、そして愛しているからこそ、マレーシアという国の現状に対して「それは違う」と発言するために、ときには戦わねばならないと感じていたのではないかという気がします。

メッセージ性をあからさまに打ち出さず、洗練された表現を用いて美しかったり暖かかったり真摯だったりユーモラスだったりする、純粋に映画として楽しめる作品を作り続ける、という戦い方。しかしそれでも、たとえば「Sepet」で中国系の男の子とマレー系の女の子の“ありふれた”恋愛を描いたことで、マレー人の保守層に批判されたというような記事もどこかで読みました。

今回、いくつか死亡記事を読んで初めて知ったこと。

ヤスミン監督は1958年生まれ。マレーシアがイギリスから独立したのが1957年だから、彼女は言ってみれば、マレーシアの歴史とともに生きた人だったんだなってこと。

ヤスミン監督のパートナーのかた、お名前がマレー系と中華系のミックスっぽい感じなので、もしかしたら「Sepet」におけるヒロインの相手役の設定と同じく、マレーの血が混じった中華系なのかもしれないってこと。そしてヤスミン監督は、ヒロインと同じく、イギリス留学経験があるので、私が観た初期の数作は、監督自身の経験に基づくところが大きいんじゃないかってこと。

それと、ヤスミン監督自身は、日本人の血が1/4混じったマレー人だったんですね。これから撮るはずだった作品は、「ワスレナグサ (Wasurenagusa)」というタイトルでそのルーツをたどるものだったということを知って、ますます寂しい気持ちになりました。もう永遠に、その作品を観ることはできないのだと思うと。これが完成していたら、さすがに日本でも映画祭だけじゃなく普通に公開されたんじゃないかしら(おそらく単館上映でしょうが)。日本人のキャストも入っていたそうだし。

とにかく、本当に本当に残念です。でも、どうか安らかにお眠りください。
Posted at 09:10 | permalink | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark
『レッドクリフ Part II 未来への最終決戦』
2009年/アメリカ・中国・日本・台湾・韓国

原題:赤壁:決戰天下/Red Cliff Part II
監督:呉宇森(ジョン・ウー)
出演:梁朝偉(トニー・レオン)、金城武、張震(チャン・チェン)、林志玲(リン・チーリン)、張豊毅(チャン・フォンイー)ほか

公式サイト:http://redcliff.jp/index.html


個人的意見としては、邦題サブタイトルは微妙。原題のサブタイトル「決戦天下」をそのまま使うというのも、なかなかカッコよかったのではと思うのですが。

劇場では2回観ました。

1回目は、実は呉の君主・孫権(なぜかmixiでマイミクさんと感想を言い合ったときには、あざなで「仲謀たん」と呼ぶ流れになってしまった)に目を引きつけられてしまっていたのです。が、赤壁映画が公開されて以来、私が金城ファンだとご存知のかたがたからオンラインでもオフラインでも口々に「金城さんの孔明よかったですね」的なことを言っていただき、まあ私の前で金城くんを褒めてくださる皆さんは、多かれ少なかれリップサービス入っているだろうという気はしますが、それにしたってそうかそんなによかったか、と改めて2度目はしっかり金城くんに着目してまいりました。

改めて見ると、やはり金城くんもよい(当然だ!)。最初に観たときには、あまりにもあまりにも「フツーに自然に孔明」だったので、かえってスルーしちゃったというか(笑)。

常に涼やかで物事を見通していて、でも周瑜に比べれば青い感じも残っていて、感情を出さないけど重要な局面では実はちゃんと緊張していて。Part I に引き続き、お目々がキラキラしていて!

っていうのはともかく。別に特定の俳優さんに萌え萌えしてるわけじゃなくても、Part I と同じく、映画館で観たほうが楽しいタイプの、大音響と大画面で真価が発揮される作品ではあると思います。スクリーンで鑑賞できてよかったです。


以下、「Part I」を観たときの感想記事と同じく、文章にまとめる気力がないので箇条書きのメモそのままで失礼します。

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Posted at 22:13 | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark
千と千尋の神隠し
(2002年8月17、19、22日に書いた感想をつなげてリライト)

2001年/日本
原作・脚本・監督:宮崎駿
声の出演: 柊瑠美, 入野自由ほか

DVDで鑑賞。作品そのものは、とても気に入りました。ストーリーラインがシンプルな分、映像の面白さを堪能できました。アニメならではだよね、こういうの。

いろんなものについて、「なにかを象徴している」臭がぷんぷんするのですが、お説教臭いほどあからさまではなく、あっさり言語化できないかんじが好き。日常部分とのギャップも鮮やか。冒頭の、主人公の言うことをまったく取り合ってくれない両親のイヤさかげんなんて、リアルすぎて気持ち悪いくらい。ああ、子供の頃、よくこういう感情を味わったなあ、と。あの頃、親の方は、子供側の主張こそが理にかなっていないと思っていたんだろうなあ。

しかしなんといっても、主人公が迷い込んだ不思議な温泉街のお湯屋さんにやってくる、やおよろずの神々の造形がとにかく楽しい。お風呂に入ってのへらーっとしてるシーン、めちゃくちゃ気持ちよさそう。

ここと、そのちょっと前の橋を渡るシーンでちらっと登場する、巨大ヒヨコの頭のてっぺんに果物のヘタを付けたような神様集団が、ものすごーく好きなのです。この方々のためだけに、自分でもDVD買ってしまいたいほどです。セリフもなんもないし、主要キャラとの絡みも皆無なので、正式名称は分からないのですが、我が家ではすでに「ぴよの神」という呼び名が付いております(註:のちに公式サイトのキャラクター紹介ページを見たら、この神様の正式名称は「オオトリさま」だそう)。あとで観なおしてみて、あの頭のてっぺんの「ヘタ」はどうやら帽子の一種であることが判明しました。屋内にいるときには脱いでいるっぽい。お湯屋さんに滞在中は、どこかにずらっと、あのヘタが並べてあるんだろう。

DVDプレイヤーのスキャンボタンと一時停止ボタンを駆使してチェックした結果、浴衣を着たぴよの神、廊下で宴会をするぴよの神、ぱたぱたと宙に舞い上がるぴよの神なども発見。あああああ、かーわーいーいーよーーー。ぴよの神、素敵だなあ。かわいいなあ。ぴよの神のぬいぐるみとかあったら欲しいなあ(値段によるけど)。

ところで、やはり上でも少し触れた、主人公の両親の描かれ方の「リアルなイヤさ」についてはなんだか、かなり引っかかっています。

主人公の少女・千尋の両親は、『ピーターパン』に出てくるウェンディたちの両親みたいな、ネバーランドへ行って戻ってきた我が子を涙で迎える慈愛に満ちた親ではありません。もちろん、悪い人たちじゃない。ごく普通の、当たり前に子育てしている、常識的な夫婦です。ただ彼らは、物語の最初から最後まで、決して千尋とまっすぐに目を合わせることがありません。それに、親子が元の世界に戻れなくなったのも、もとはといえば、この両親の無分別な行動のせいです。

それでも千尋は、ハクや釜爺、リンたちの助けを得つつ、両親を助けるために奮闘します。不思議の町で出会った人々がどれだけ親切で、彼女のためを思っていてくれても、一番大切なのはお父さんとお母さん。それが私には、なんだか哀しい。年若い子供から親への愛情って、どうしてこんなにも無償で無条件なんだろう。親は子供に対し「こうあってほしい」という要望を押し付けてしまうことがあるけれど、大概の場合、子供は自分の親を、たとえ不満があってもありのままに受け入れます。どんな親でも、その親のせいでどんな窮地に陥っても、子供にとって親は絶対であり、判断の基準であり、幼く非力なうちは自らの生命を預ける相手。万が一、絶対的な愛情を注げなくなった場合には、罪悪感を抱いてしまう。この物語の主人公がまだ10歳前後であると思われるので、余計に切ないのかも。この少女にとってすでに親とは、自分を守ってくれるものではなく、自分が守らなければならないものとなっている。そしてそのことに、親たちは気付いていない。けれどこの子は、それをまっすぐに受け止める。

自分を導くものであったはずの存在が、実はそうではなく、常に正しいと思っていた存在が、時に理不尽な言動を取ることもあると知るときの痛み。そう、オトナなんて、コドモが大きくなっただけのものに過ぎないのだ。どんなオトナだって。私だって。歳を取ったからって偉いわけじゃないという事実を認識するのは、オトナにとっては、生きやすくなることだけれど、コドモにとっては、どうだろう。「オトナは完全じゃない」という考え方をすんなりと受け入れられるようになっていくのが、すなわち、オトナに近付くということなのかも。少なくとも私はそうだった。

ただ、それはそれで、前向き結末であるなような気はしています。帰りのトンネルで、「そんなにくっつかないで」と邪魔そうに言われても、千尋はお母さんから手を離したりしません。両親は両親なりに、千尋に愛情を注いでおり、突き放すことはないと分かっているからだと思う。そしてたとえ自分と視線を合わせない両親であっても、彼らが自らの陥った危険に気付いていなくても、千尋自身が彼らを窮地から救いたいと思い、実際に救うことができたという満足感があり、そしていざとなれば彼らがいなくても生きていける自分に気付いたうえで、やはり彼らのことを好きだと自覚しているのなら。ちゃんと、ハッピーエンドだと思うのです。


千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
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柊瑠美,入野自由,内藤剛志,沢口靖子,夏木マリ,菅原文太
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