松本方哉『突然、妻が倒れたら』

テレビを観る習慣がないもので、このかたの番組もちゃんと観たことがなかったのですが、著者はフジテレビ所属の報道キャスター。

家庭の切り盛りを奥さまに一任して、50歳を過ぎるまで仕事一筋にひた走ってきていたある日、その奥さまが突然、本当に突然、46歳という若さで重篤なくも膜下出血を発症してしまいます。

本書は、奥さまが救急車で運ばれ瀕死の状態での手術や転院、長期のリハビリを経てようやく自宅に戻り、自宅での介護が始まり、新たな病気が判明し……というあたりまでの記録です。著者が報道畑の人だけに辛い中でも明晰な状況説明と、奥さまの可愛らしくも芯の強い人物描写が胸に迫ります。

これまでのように流暢に言葉を発することができなくても、犬の顔をかたどった枕に名前をつけて呼んでみる。辛いリハビリのときには、課題が終わるとなんとか動くほうの腕でサーカス団長のように周囲の拍手を促す動作をし、笑いに持って行く。そんな奥さまのキャラクターが本当に健気で前向きで、また写真を見ると、たしかにそういうお茶目なふるまいが似合いそうなとっても可憐な女性なのでした。

著者も、看病や介護の傍ら、仕事や小学生の息子さんのフォローに奔走し、周囲の理解や協力を仰ぎつつ、読んでて心配になるほど何事にも全力で当たっています。本書で語られている日々のあとも、生活は続いていくわけで、ご一家のこれからのことを、お祈りせずにはいられません。

何を覚悟しなくてはいけないのか。病状そのものについての基本的な知識。病院を選ぶ際の基準。介護保険などをどんなふうにチェックする必要があるのか。制度の問題点。またとりわけ、そのような非常事態に見舞われた家族や本人が、どのような気持ちになるものなのか。本業の原稿執筆の傍ら、そういったことを改めて鮮明に思い出して整理して書き起こしていくのは、辛い作業だったのではないかと思います。

だからこそ、この本を著した動機のひとつが、著者本人が奥さまの病気に直面したとき、参考にできる出版物がなかったからであるというのが、非常にありがたく、また崇高であると感じました。この本が出る前と比べれば確実に、同じような状況に置かれた人や、いつか置かれるかもしれない人にとって、指針となるものが増えているということですものね。
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    安野モヨコ『食べ物連載 くいいじ』上・下

    安野モヨコ『食べ物連載 くいいじ』安野モヨコ『食べ物連載 くいいじ』
    くいいじ【上巻】

    くいいじ【下巻】

    (文藝春秋,2009年11月)


    初出は上巻が『週刊文春』平成18(2006)年8月31日号〜平成19年3月15日号、下巻が平成19年3月22日号〜平成19年10月11日号。

    著者の安野さんは本業マンガ家ですが、本書は食べ物をテーマとした文章によるエッセイ。まえがきでご自分のことを「料理の腕も絶対味覚も持ち合わせていない丸腰の漫画家」とか「本当にごくごく普通の食べ物に対する意識しか持ち合わせていない」なんておっしゃっていますが、だからこそ、押しつけがましくなく「食」を語れているんじゃないかな。

    絶対に総合すると私なんかよりずーっといいもん食べてずーっとオシャレな生活しているに違いないのに、読んでてぜんぜん僻みっぽい気持ちが湧いてこない。その「食いしんぼう」ぶりに、なんだかとっても親近感。

    ダイエットは思う存分食べるため、人から指摘される口癖は「おなかすいた!!」、春の山のやさしい色合いを見ていると「おいしそうだな」とつぶやいてしまう。

     イメージとしてはウエハースのようにあまり厚さの無い、サリッとした歯ごたえの干菓子。指でそっとつままないとすぐくだけてしまう程繊細なそのお菓子をハリハリと口唇で割る様にして食べれば、口の中で桜の風味と思われる薄い甘さが広がるのだ。
     控え目な新緑は少し苦味があって、その味よりも噛んだ時の歯応えやツブツブした舌触りを楽しむ。

    ああ、いいなあ。春のお山、こんなふうに描写されてしまうと本当に美味しそうだなあ。そしてそんなことをイメージできちゃう安野さん、素敵なひとだなあ。

    太陽を大ぶりのスプーンで食べたり(「口に含むとじんわりと熱が伝わって、その次に薄いまくの様な表皮がプチュンと割れる」そうです)、夜の電車の窓から見える冬の冷たい光を細い銀のピンで刺して食べたりする空想が語られるこの章(下巻に収められた「食べたい物」)が、いちばん好きかも。

    上巻では、「おもてなし」という章の、ご夫君(映画監督でアニメーターの庵野秀明さん)のお友達が遊びにくることになって、「食べる物は買っていくので奥さんおかまいなく」と言われてたので事前の買い物も控えめにして安心して待ち受けていたら、現実に買ってきてくれたものがぜんぜん使えなくて、お客さんが帰るまでありもので延々と怒涛のように料理し続ける羽目になる……というエピソードが臨場感たっぷりで読み応えありました。

    うおー、偉い奥さんだ。自慢にならないが、私など以前まだがっつり働いていた頃、夫が友達呼んだからねー、と言った日がちょうどぎちぎちにスケジュール組んだ仕事の納品日で、やはり「食べる物は買っていくので奥さんおかまいなく」と言われたので、本当に挨拶だけしてあとはずーっとお客さんほったらかしで仕事部屋のパソコンにへばりついていたことあるよ。しかしあとでキッチンの残骸を見たかぎりでは、けっこうマトモにバランスとれた美味しそうなもの食べてたみたいでした。

    安野さんはこのとき、「余程気のきいた人でも無い限り男性の買って来る物って大抵肉だけだったりする」とか、あと別の章でも男性編集者の差し入れはセンスがない、と嘆いたりしていらっしゃるのですが、私の周囲の男の人たちは、そうでもない気がします。

    で、これって世代の差なのかなあ、と最初は思ったのですが、ずっと読んでると、たとえばセンスがないと言われた男性編集者は、お肉を買ってくるときだけは素晴らしい選択眼だったりするし、庵野さんの場合にかぎって言えば、どうやらこのかたは、「食」全般に対する熱意や冒険心が安野さんほどにはないのですね。そうか、情熱の差なんだ。

    しかし、食いしん坊な安野さんと、好き嫌いの多い庵野さん、それでも夫婦として、とっても仲良しなんだよなあ。そういう、お互いの食事に対するスタンスを押しつけ合わないで、なおかつ共有できるところを共有していくっていう度量の広さも、いいなあと思います。
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      矢崎存美『再びのぶたぶた』

      久々のぶたぶたさんで、今回はいままでの作品にちょっとつながりがある話ばかりの短編集らしいのですが、そもそも自分がどれを読んでてどれを未読なのか把握できていないということが分かった。いかんいかん。

      とりあえず、「次の日」で“刑事ぶたぶた”にふたたび会えたのが嬉しかったです。あと「再会の夏」を読んで、そういえばぶたぶたさんって、何歳なんだろうと思いました。十年前も、このお話の時点でも、「おじさん」なんだよねえ? そしてさらに、ぶたぶたさんって、寿命あるのかなあ? なんて、ちょっと怖いことにも思い至ってしまったり……。うぐぐぐ。

      いやでも、むしろ改めて考えたら、子供時代ってあったのか? というほうが激しく疑問。

      【関連記事】
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        野中広務+辛淑玉『差別と日本人』

        対談本。共に真摯に相手の発言に向き合いつつも、アグレッシブに切り込んでいく辛さんと、公の場では決して口に出さない思いがまだまだたくさんありそうな野中さんの違いが印象的。

        本書に取り上げられているものに限らず、さまざまな問題について当事者でないものはどうすれば、ということを考えると無力感に襲われますが、知らないよりは知ってるほうが、何も考えないよりは自分なりに考えをめぐらせて自らの姿勢を方向づけておくほうが、まだマシなんじゃないか、とか思いながら読みました。

        少なくとも、問題に取り組んでいるひとたちは、社会的に不利益を被ったり、当事者でない者たちの無関心や心ない言葉に傷つけられるだけでなく、信条を貫くために現状での安定を敢えて手放したり、平穏を望む家族とのあいだの軋轢に苦しんだりしながら、一歩一歩、物事を進めてきたのだということを、忘れないようにしたい。
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          新井素子『もいちどあなたにあいたいな』

          『チェックメイト ブラックキャットIV』(2003年末)以来、およそ6年ぶりに読んだ新井素子さんの長編小説。新井さんご本人は、これを8年かけて書いていらっしゃったそうです。

          プロローグ部分のタイトルが「OPENING」、エピローグ部分が「ENDING」になっていて、章ごとに視点は切り替わりつつも、独自のリズムを持った一人称文体で進む、新井作品ではかねてよりよく見られた相変わらずの構成が、なんだかとても懐かしい。

          そしてお話。一見かわいらしい舌っ足らずの無垢な語り口で、だんだんとゆるやかに、何かから滑り落ちるように世界が様相を変えていくときの各登場人物の精神状態の描写もまた、相変わらずなのでした。

          私にとってこのお話でとりわけ怖かったのは、本作の最初と最後で《彼女》が「あいたいな」と思っている相手があくまでも「お兄ちゃん」なことかもしれないなあ。そしてまた、その《彼女》に対して「あいたいな」という気持ちを抱いているのも、《彼女》と血縁のある人で。主要登場人物たちが形成する集団のなかでも、血のつながりのない人間は、まったく蚊帳の外に置かれていて。

          パートナー至上主義者と言わば言え、私はそこが、最も絶望的だと感じる。このお話のなかに出てくる二組の夫婦はどちらも、決して決定的なことを話し合ったりはしないのだ。

          特に陽湖さん視点の章……短気な私は、何度もいっぺん腹割って話せよ、とか思うんだけど、なんかもう絶望的にすれ違ったままなのだ。ほんと陽湖さん、ここまで追いつめられる前にすぱーんとキレときゃいいのに。夫を「卑怯階級」だと軽蔑しちゃう前に本音で怒りをぶつけてみりゃいいのに。娘に対してだって、もっと死に物狂いで愛情ふりかざしてみたっていいのに(それがいいほうに行くか悪いほうに行くかはともかく)。でもそうはできないから、徐々に孤独にずれていくんだよねえ。そのずれていくさまこそを著者は執拗に書きたかったんだというのは理解しつつも、読んでてつらい。陽湖さんの心情吐露の部分だけがある意味、物語の本筋から恐ろしく浮いてるという事実そのものが、彼女が蚊帳の外だということを象徴しているようで。

          あと、「やまとばちゃん」こと和さんのほうの配偶者(この人に至っては、作者から自分の心情を語らせてもらう機会すらなく外から描写されるだけで終わる)は、絶対に奥さんがなんかおかしいということに、まったく気付いていないはずないと思うんだけど。じゃなかったら、あんなこと言わないよなって台詞があるでしょう。でも奥さん本人に向かっては、何も言わないのな。私がガキなんでしょうか、私だったら「いつだって真っ先に判ってくれる」のは、澪湖みたいな親戚の子よりも、伴侶であってほしいよ。そうならないところが、すごく怖くて哀しい。

          結局、腹割って話すのは、「やまとばちゃん」とその血縁者である本作の主人公の澪湖、そしてその話し合いの場に立ち会う「最終兵器」たるオタク青年、木塚くんのみで。この木塚くんは、なんていうか「古き良きオタク」って感じがします。オールラウンドで。こういうキャラ、いかにも新井さんの作品に出てきそうだよねって感じで。こういうところもまた、なんだかちょっと、懐かしい。

          どろどろと掘り下げられていく人間関係のずれとか内面の歪みとか、世のことわりを超えてしまうほどの想いの強さとか、ああ、新井素子だなあって感じのお話でした。
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            益田ミリ『言えないコトバ』

            ちょこちょこマンガが挟まっていますが、全体としてはエッセイ集。

            ひとが言うのはよくても自分では敢えて口に出さない、口にするのが気恥ずかしい、気後れする、なんだか好きじゃない、語感から意味上はまったく関係ないイメージが浮かんでしまう……などなど、いろんな理由で「言えないコトバ」を取り上げて、なぜ言えないのかを説明する、というパターンで続きます。

            「うんうん、分かるなあ、私もそうなんですよ」とうなずきながら読んだり、「自分はそこまでこだわらないなあ」と感心したり、はたまた「わ、これついつい言っちゃうことあるけど、ちょっと気に留めておいたほうがいいかも!」と冷や汗かいたり。

            なんにせよ、個々の「言えないコトバ」そのものが違っていても、そういったコトバに対する引っかかりをいろいろ抱えているということ自体には、すごく親近感を持ったし、自分だけじゃないんだと心強く感じました。

            しかし、一緒に暮らしている男性がいるにもかかわらず、「ひとり暮らしの楽しみ方」というテーマで仕事を依頼されたり、インタビューで「ひとりで生きていく覚悟を決めた理由」を訊かれたり、旅行してきたと言っただけで「ひとり旅」だと決めつけられたりする……という話には、申し訳ないけどちょっと笑ってしまいました。

            それやっぱり、「すーちゃん」シリーズあたりがあまりにも世間で話題になっちゃって(私も益田さんのお名前をこれで意識するようになりました)、作者までひとり暮らし女性の代弁者みたいなイメージで見られちゃってるってことなのかなあ?
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              津田大介『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』

              Twitter上で講演などの実況をつぶやきつづけるという行為が「tsudaる」という新動詞となってネット上で定着しているのは、このかたが最初にそれをやったパイオニアだから……という話で、この著者のことを知りました。

              私のタイムライン(TL)上でも、ときおり小説家のトークイベントなどをtsudaってくださるかたがいらっしゃいますが、自宅のパソコン前にいながらにしてリアルタイムな臨場感が得られるのは、いままでになかった面白さです。

              その、twitter上での有名人となっているメディアジャーナリストの著者が、初心者にも大まかにtwitterの概要や活用法、今後の展望などを解説してくださっています。

              まあ、こういうのは、なんとなーくアカウント作ってなんとなーく使っているだけでも、なんとなーくは楽しめてしまうものではありますが(ていうか、実際それなりに楽しんじゃってましたが)。でもtwitterの成り立ちとかたどってきた道とか、ほかのサービスに比べての特徴とか、コンパクトにまとめてあって、最近になってちょっと使い始めたばかりの私には、なかなか興味深く読めました。

              あと、「tsudaる」の語源となったかたによる、その行為に関するいろんな考察は、なるほどここまで考えてやってることなのか、と感心。少なくとも元祖のひとは、著作権や報道としての位置づけなどを視野に入れて種々の問題をクリアしたうえで中継しているんだなあ、と。tsudaる際のコツなども具体的に書いてくださっていて、参考になりました。いや、私がやることは今後もないと思うけど(笑)。

              さて、私は現在twitterを、著者が言うところの「SNS的な」使い方しかしておりません。相手を個別に認識できる範囲の数だけフォローして、発言内容と共に、「誰が」その発言をしたかに重きを置きながらTLを見ていくような。

              オープンな場であるという意識は常にあるし、フォロー先にはそれまで接点がなかったひとや、こちらから一方的にフォローしているひとも含まれているので、本物のSNSと比べればつながりはゆるいものですが、でもやはりこの面白さは、わりとSNSに近いと自分でも思う。ただリアルタイム性が強いところが、従来のSNSと違ってて新鮮というだけで。

              本書によると、「ツイッターの独自性が理解できるのは、知り合い以外も含めて100人以上フォローするあたり」、そして「タイムラインの景色が変わるのが、フォロー数300〜500を超えるあたり」なのだそうです。

              画面上の情報を過去にさかのぼってすべて見るようなことはせず、アクセスしたそのときに目に入る情報の流れをそのまま取り込んでいくような使い方。

              そういう世界も、きっと面白いのだろうな、とは思います。ただ、一度そうやってフォローする先を増やして「タイムラインの景色」を変えてしまうと、いまの面白さはきっとなくなってしまうんだろうなあ、と思うと、ちょっと尻ごみしているというのが正直なところです。まあ、いまの状況をとことん堪能してから考えよう。

              ……とかなんとか言って、私のことだから、ある日突然、発作的にフォロー先をやたら増やしていたりするのかもしれませんが。
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                桐山秀樹『「アエラ族」の憂鬱 「バリキャリ」「女尊男卑」で女は幸せになったか』

                えーと、すみません、そもそも雑誌『AERA』(朝日新聞出版)を金城武くん取材記事が載ってるときくらいしか買ったことない私が読む本じゃありませんでした。

                件の雑誌に掲載されている「働く女性」関連の記事がたくさん引き合いに出されているのですが、全文引用されているわけじゃないので、著者の主張をどう受け止めるかの判断が難しい。

                たとえば、妊娠中の同僚が職場でエコー写真を見せてまわることに批判的な女性を取材した『AERA』内の記事(2009年6月1日号)を取り上げて、著者は「女性の出産に対する悪意と嫉妬に満ち満ちている」と書くのですが、そこだけ読めば私はどうしても「いや、出産をおめでたいこととして祝福するのと、仕事中に手を止めてエコー写真の感想を言わなきゃいけないのがメンドクサイというのとは、別問題じゃね?」と思ってしまうし、だけど記事全文読んだわけじゃないので、そこだけに反発するのはフェアじゃないのかなあ、そして著者は私みたいなのの意見にも「子供がいない者のヒガミだろ」的に返してくるんじゃないかなあ、みたいなモヤモヤした気持ちになっちゃったり。

                「母はなぜ重いのか」というタイトルの対談記事(2008年9月8日号)については、「姥捨山のごときタイトルを時代のトレンドのごとく付け」と批判しているけど、いやたぶんそれ、『AERA』編集部の考えというより、時期的に見ても信田さよ子さんが同年に出した著書『母が重くてたまらない』をもじっただけだけなんじゃないか(と、書いてから念のため公式サイトのバックナンバー記事一覧で確認しましたが、やはり信田さよ子さんと、『母は娘の人生を支配する』の著者である斎藤環さんの対談ですね――ついでに、問題の本も一読した者としていちおう言っとくと、信田さんの著書は「姥捨て山」と逆で、どれだけ理不尽な負担をかけられても親が捨てられないからこそ苦しんでいるひとたちのお話ですよね)。

                あと、著者は○年○月○日号のこの記事ではこう書いているのに、×年×月×日号のあの記事ではああ書いているから矛盾だ……みたいなことをおっしゃるのですが、ええと、『AERA』って、そういう雑誌? 一人のひとが全部書いてるわけじゃないんだし、別に思想誌とかじゃないんだよね? こういう問題を感じているひともいるし、その一方で最近はああいう意見もあるよね、みたいな感じじゃ駄目なの? 記者全員の考え方が過去から現在に至るまで終始一致している必要は別にないのでは? その辺も、ちょっとよく分かりません。

                それと、そういった『AERA』の記事が女性たちを扇動しているというご意見みたいなんだけど、そもそも特定の雑誌の記事にそんなにいちいち踊らされる読者なんて、どこまでいるのかなあ、みたいな疑問も湧いてきます。

                著者は、『AERA』に匿名で出てくるバリキャリ女性みたいなのは、ほんとは創作なんじゃないの? という疑問を呈しているのですが、それを言うなら、『AERA』に自分の価値観を翻弄されている女性も、著者の「仮想」的存在にすぎないかもしれないじゃん?

                そうやって、『AERA』自体をあんまりよく読み込んだことのない人間が本書に目を通していると、なんとなくおぼろげに「バブル時代に社会に出てキャリア志向で結婚する機会をスルーしてでも男性と肩を並べようとがんばってきた女性たちのことが本音では疎ましくて、女の子は可愛げがなくちゃ……なんてことを思ってしまっているんだけど、一方で女は引っ込んでろというのもイマドキの流れじゃないことも理屈では分かっていて、そんなこんなしているうちに台頭してきたロスジェネ世代の若い女性たちは、バブル入社組と比べれば自然体だし地に足のついた婚活なんかもしていていいなあ、とか思ってすり寄り気味になっちゃってる、かなり困惑気味のおじさま」像が浮かんできたのですが、いかがでしょうか(って訊かれても困るよね)。

                ちょっとなるほどと思ったのは、この著者が勝間和代さんについて、かつて小倉千加子が『結婚の条件』において描写していたような(とは著者は言ってませんが)、企業内で出世をしようというような野心を持たず「育児と趣味的仕事を両立しようとする新・専業主婦」(太字強調は私による)にとってのロールモデルになっていると指摘していること。そういう見方もあるかー。もちろん、現実の勝間さんは、とても「趣味」とは言えない稼ぎっぷりなんですが。

                なんにせよ、著者は再三にわたって、男女の役割には区別があるのが生まれつきの姿、男は基本的に融通がきかずプライドにこだわる弱い生き物なので、本来コミュニケーション能力に優れている女はそれを立てて手のひらで転がしておくのが得策(肩を並べて張り合うのではなく)といった感じのことをおっしゃるのですが、その同じ筆で「いまどきはその役割が逆転していてもOKですよね」みたいにも言い出したりと(じゃあそれは、生まれつきってわけじゃないのでは!)、もうほんとすごく混乱しちゃってる感じなのです。『AERA』の記事に一貫性がないとか言うてる場合と違うのでは。おじさま、がんばって(笑)。

                とりあえず、最後にもうひとつだけ言わせてもらうなら、女性は別に著者定義によるコミュニケーション能力が本質的に高いわけじゃないと思うなあ。男性を手のひらで転がすような類のコミュニケーション能力を駆使しない女性はそもそも(少なくとも著者のような男性の目には)可視化されず、いないものとして扱われるか、勝手に「素直になれずに本来の資質を抑圧している」と決めつけられるかであるという、それだけの話のような気がする。そしてそれが肯定すべきことかというと、私はぜんぜんそうは思わない。まあ、不可視化されてるほうが、わずらわしくなくていいんじゃないかって話もありますけれども。
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                  勝間和代+香山リカ『勝間さん、努力で幸せになれますか』

                  言い訳臭いけど、本当はこの対談集、読むはずじゃなかったんですよ。勝間さんのキャラ(キャラ言うな!)については、1〜2冊通読してウェブ上に発表された文章をいくつか目にした時点で、もうそこそこ分かったような気になっちゃってたし、香山さんのご意見については、先日ひととおり読んだばかりだし。おふたりの対談だって一部をネット上で読んだことあるので、だいたいの雰囲気も予想ついたし。

                  しかしたまたま借りられる状況に遭遇してしまったら、このチャンスを逃すのは惜しい気がしてきて(あとでやっぱり読みたいと思っても借りられないよなあ、と思って……現在、地元図書館では予約者が約40名)、ついうっかり借りて帰って時間を費やしてしまったのでした。勝間さんが提唱する「無駄を省いて効率化」にも、香山さんが提唱する「しがみつかない」にも反している私のこの貧乏性っぷりはどうよ。

                  読み始める前に何気なく開いたページでパッと目に入ったの次のやりとりが、すごくインパクトありました。

                  勝間 私は、楽しく努力する方法は教えます。しかし、努力をしないで楽しくなる方法は教えません。これは、私の本のポリシーです。

                  香山 では、努力をしなくても、いや努力なんてしないからこそ楽しいと思える人もいるわけで、それはどう思いますか。

                  (中略)

                  勝間 それが受動的な楽しさだったら、ちょっと寂しいかなと思います。ゲームをして楽しいとか、テレビを見て楽しいとか。

                  香山 寂しい、ですか? ゲームを愛しているということは、勝間さんから見たら寂しいですか。

                  このあと、勝間さんはこの問いを受けて「悲しいですね」と答えるわけですが。そうかー、悲しいんだー。そしてゲームは受動的な楽しみなんだー。いやでも、私はゲーマーじゃないからちゃんと分かってないだろうけど、ネット上でのあれこれを見ているかぎり、あるひとつのゲームをクリアしたり高ポイントをたたき出すために、ゲーマーなひとたちはけっこうな努力をしているよね。あんまり「受動的」という感じがしないのですが。特にオンラインゲーマーなひとたちは、技能だけでなく他者とのコミュニケーション能力を日々ざっこざっこと磨いている雰囲気がある。

                  まあここで、この「ゲーム」を「非生産的な楽しみ」という言葉で置き換えるなら、私もまた、そういう楽しみなしではたぶんまともな精神状態で生きていけない部分があるので、どうしてもそちら寄りになってしまうのは仕様です。つーか、私が生きる糧にしている楽しみは、たぶんゲームよりもっと傍から見ると無駄で非生産的で努力の必要がないぞ! そうかー、勝間さんのようなタイプから見ると、そういうのって、悲しいことなのか。

                  最初、ここを読んで、すごく気持ちがへなへなしたんですよ。もうここだけで、勝間さん的な価値観は一生理解できないわ、と感じてしまって。

                  ただ、全体を通して読んでみると、また少し、捉えかたが変わってきた。

                  正直なところ、私は勝間さんとは逆に、いままでずっと、そういった人生における直接的な向上や利益につながらない無駄で非生産的な楽しみかたを知らないひとを、「心の贅沢というものを知らない、悲しい、かわいそうだなひとだ」と感じてきたところがないではなかった。すごく余計なお世話で傲慢だけど。

                  しかし、このやりとりを読んで、かわいそうに思う必要なんてないんだな、と改めてきちんと理解できた。それって、いいことなんじゃないだろうか。あのひとたちのために、私たち「のらくら者」が心を痛める必要はないし、当たり前だけど、むしろそんなことを考えるほうが失礼なんだよね。そう思うと、なんだかすごく、安心できました。

                  あと面白いな、と思ったこと。まるまる1冊分、おふたりのやりとりを読んでいると、だんだんと、イメージが逆転してくるんですね。

                  • 人生には異性のパートナー(絶対的に自分の味方をしてくれる人)が必要
                  • (これは別の著書での主張だけど)女性のほうが年収が高いと男性のプライドが傷ついて上手くいかないので、年収600万の女性は年収1000万以上の男性を探すべき
                  • なんだかんだ言っても、女性はこぎれいにしてフェミニンな格好をしていると周囲のウケがよいので、コミュニケーション戦略的にそういう格好をすべき


                  などなどと主張し、「収入の多寡でパートナーに対する態度を変えるほど人間的度量が狭くない男性もいるはず」、「(比喩的な意味も含めて)すっぴんのワタシでも純粋な言動だけで正当に評価してもらえる場があるはず」というような少女趣味でナイーブな感覚には一貫して懐疑的な勝間さんが、読み進むうちにそのアグレッシブな姿勢とは裏腹に「連綿と続いてきた世の中のコンサバな固定観念に屈してしまった諦めのひと(いろんなことに目をつむって、起きていることはすべて正しいと現状肯定することで初めて前向きになってる)」に見えてくる。

                  そして一方でそういった部分にひとつひとつ反論して個人の価値観と選択の自由を守ろうとする香山さんは、努力できなくたって生きていていいじゃないという脱力系の主張とは反対に、「理想と尊厳を守るために決然と現実の趨勢に戦いを挑みつづける孤高のひと(同じ側についているはずの層が必然的にみんな覇気がないので、なかなか援護射撃が得られずちょっとお疲れ気味)」に見えてくる。

                  それを高みの見物的に読み流してあーだこーだ言っている私はナニサマだっちゅー感じですが。

                  個人的には、そもそも「努力」とか「がんばる」の定義が人それぞれだからなーって思ってます。あるタイプのひとにとっては、スキルアップのために努力することは苦痛を伴わない楽しいことであるのかもしれないけど、その一方では、ただ毎日呼吸をして生命を維持しているだけでも、すごくがんばって必死でそれをやってるひとがいるかもしれないし。

                  生きてるだけでも努力必要なひとは、努力しなくていいと言われても、苦しんで続ける努力は効率的でないので間違っていると言われても、同様に「生きててごめんなさい」的な気分になるかもしれないので、傍からどう見えようとどんな人だって、それなりに努力的なこと(「努力」と言いきらないところが往生際が悪い?)はしているはずだよ、がんばってるよ、というのが最近のスタンスです。少なくとも第三者が努力の有無を言うな、みたいな。
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                    森博嗣『トーマの心臓』

                    萩尾望都による1974年の漫画作品を、かねてより萩尾望都ファンであると公言していた森博嗣が小説化。

                    最初にそういう執筆計画があると、森先生ご自身がネット上で明らかにしているのを知ったときには、「いったいどうなっちゃうんだ!?」という気持ちでした。原作漫画のあの世界は、《1970年代の少女漫画》だからこそ成立するものであったように感じていたからです。

                    そして実際に読んでみると、原作とは少し(いや大幅に?)設定が変わっているところがいくつかあって、「そう来るか!」と面食らいました。でも最後まで読んでみると、これはこれで悪くない。もしかしたら、2009年の日本語作品としては、元設定であのストーリー展開というのを文章で読むのは、けっこう苦しかったかもしれないし(じつは、読む前にも、そこを少し懸念していたのでした)。

                    特に大きな(と私が思った)変更点は、登場人物たちの年齢設定です。原作だと、皆の気持ちの交差点に位置するユーリ(ユリスモール)が14歳なのをはじめとして、主要登場人物たちの年齢はその前後に固まっていて、この年代の少女漫画キャラにしかあり得ない透明感や危うい繊細さを感じていたのですが、この小説版では、みんなもう少し年齢が高く、少年というよりは青年に近い。

                    はっきりとは確定されない時代の、浮世から隔絶されたエリートたちが集まる全寮制私学で理系の学問の研究にはげむ彼らは、やはりどこか透明ですが、より硬質な印象です。その言動は、結局のところ、かなり従来の森博嗣作品のキャラに引き寄せられているような。しかし各キャラ造形の根本的な部分には原作への愛を感じます。物語は、最初から最後までオスカーの一人称で進むのですが、このオスカーは好きだなあ(いや、もちろん原作のオスカーも好きだったけれど!)。

                    一方、私自身が原作漫画を読んで強いインパクトを受けた部分が、案外さらっと流されていたりして、こういう読み方もあるのか、と興味深かった。著者の目で読む『トーマの心臓』は、こうなのか、と。

                    いちばん驚いたのは、ユーリが進路変更を考えるタイミング(これは明確にされていませんが、私は原作では決意が固まったのは早くとも出奔したエーリクを迎えにいって合流したときよりあとだと思っています)と、それがオスカーやエーリクに明かされるタイミング(原作では物語の終盤)。私にとってはここはすごく重要で、絶対に原作どおりでしかありえない、という感じだったのが、本書ではいとも軽やかに、彼のなかにすでにあった考えとして前倒しされ、エーリクを迎えにいく前のオスカーとの対話のなかで表明されていました。

                    私は原作を、ほぼ一貫して、ユーリが葛藤を乗り越える物語として読んでいたけれど、小説版のなかでオスカーの視点にスポットライトがあたってみると、オスカーが周囲の人間との関係においてある種の結論に至るための流れのなかでは、これでいいのかもなあ、という気もしました。オスカーに、考えをめぐらせる時間が長く与えられている。

                    なんにせよ、原作のストーリーをおおむね忠実になぞっていながら、読後の余韻は紛れもない「森博嗣作品」であると思えて、不思議な感覚にとらわれました。
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