森優子『買ってよかったモノ語り』

タイトルのとおり、著者が買ってよかったと思っているものを紹介している本。イラストと文章と写真が渾然一体となって読者に猛アピールしてくる語りっぷりに、勢いがあって楽しかったです。

以前、この著者の『東南アジア ガハハ料理ノート』を非常に興味深く読んだので、「ものすごく旅をしてる人」のイメージが強く、日本で普通に暮らして日常生活を送っているようすが垣間見える本書が、なんだか意外な感じでした。まあ、冷静に考えれば、ほとんどの人は、常に休みなく旅してるわけじゃないもんね、本拠地での暮らしだってあるよね。

しかしながら、やっぱり「ものすごく旅をしてる人」なので、紹介されてる「モノ」も、そんじょそこらの「暮らし系」とは一味違います。トップバッターとして登場するのが、「タンザニアの市場で買った、ライオンも倒せる槍と同素材で作った30円の木べら」だよ。あらそれいいわね、私も買ってこようかしら……なんてことはおいそれとは言えません。

そういった、世界中で買ってきたいろんなものと、日本で買ったいろんなもの(輸入雑貨屋さんから、デパートの実演販売スペース、近所の個人経営の電気屋さん、駅改札前の露店などなど、入手先は多岐にわたる)が、森さんちではきちんと調和して、日々の生活を作り上げているんだということに、好感を抱きました。

巷でちょこちょこ見かける、おしゃれで機能的な暮らしを提案します的な書籍や雑誌だと、どうしてもジャンルごとにテイストが似通っていってしまうんだけど、現実には、常に「要らないもの」に目を光らせて、目指す路線にそぐわないものを「排除する」ことに躍起になっていないと、(少なくとも私の性格では)そういう暮らしは維持できないと思うんだ。いまの私は、それもちょっとなあ、という気分になっていて、そういう意味では、ド迫力でいろいろプッシュされても読んでて気持ちを圧迫しない、心地いい本でもありました。

 中には「こんなの使うのお宅だけよ」と言れるものもあるかもしれない。が、きっとそれぞれの家庭に少なからずの「お宅だけ」があって、それを含めてそれぞれの日常はまわっているものじゃないだろうか。(p.100)

これは、紹介されているモノ自体について言及した文章ではなく、バスケットの形状がシンプルであるがゆえに臨機応変な食器洗い機について語っているくだりです。でも、その「お宅だけ」を恥じない、むしろ誇りに思う気持ちが好きだなあ、と。

トングの話で、本文で紹介しているミニトングとは別に、柳宗理のステンレストングを図解しているページがあって、「むちゃくちゃ使いやすい」と推薦してあるんですけど、同じページの端っこに、その反面「俺わかってる人だからオーラ」むんむんのひとに「あー柳ね、結局そこに行きつくよネ」とか言われるとムカつく……みたいなことが書いてあるのも、そうそう、分かる分かるー! と勝手に親近感(笑)。モノ選びの心はシンプルかつ複雑なのだ。

インドでトイレを借りるために入った金物屋さんにたまたまあって娘さんが目をつけたという(まさに一期一会!)、総ステンレスのお弁当箱は、本気でうらやましい。ゴムのパッキンのようなものは一切ついてなくて、純粋にステンレス同士のかみ合わせだけで完全に密閉される、カレーを入れても漏れないお弁当箱。問題は、いまの私の生活にはお弁当箱など不要だということですが(……と書いてみてから、いや、もともと不要なものが物理的に買えないというのは、じつはまったく問題じゃないな、と気づきました)。
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    中村のん『社長、その服装では説得力ゼロです』

    著者は、CM、広告等で活躍するベテランのスタイリスト。けれども本書は、決して最新ファッションで身を固める(あるいは、固めたい)読者のためのものではありません。

    「着る人」に「着られるもの」が及ぼす精神的影響、身につけるものによって左右される他者からの印象の問題が、長年の経験から具体例を挙げつつ包括して語られます。

    人は見た目じゃないとは言うけれど、「内面」はけっこう「身なり」に出てしまう、あるいはそう評価されてしまうもの。だとしたら、いままで無頓着だったひとも、もうちょっと意識的・戦略的にお洋服を選んでみてもいいのでは? みたいなことを、必ずしもファッショナブルであることが重要なわけではなく、むしろ人によっては、敢えて流行に乗らないキャラとしてやっていくことが得策であったりもする、ということも踏まえて、やんわりとした口調で指摘してくれます。

    その場その場に適していて、かつ自分に似合っていると自信を持って言えるような洋服選びは、なかなかに難しいものですが、自分の強みも弱みもちゃんと理解して、それをいつも楽しんでやれるひとというのは、本当に憧れます。私など、いつも「もうこれでいいや(投げやり)」と「この服が好き!(自己満足)」のあいだを揺れ動きがち。

    客観的にはすごく似合っているのに、本人の自意識の問題で着られない服がある、みたいな話も、すごく分かるなあと思いました。

    はたまた、自分の服を選ぶときにもプロの目で、服売り場の店員さんのいい加減なセールストークなど蹴散らす勢いで、自分に合うと確信できる服だけを購入している著者だけど、いつも素足や黒のタイツで保育園の送り迎えをしていたら息子さんに「みんなのお母さんみたいに、こんど、とうめいのくつした(すなわちストッキング)はいて」とお願いされちゃう微笑ましいエピソードや、韓国へ旅行して、まったく若々しさなど眼中にないファッションの同年代マダムたちに囲まれたら、貫録負けして気後れしてきた、というエピソードなどは、なんだか新鮮で面白かった。
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      相沢沙呼『午前零時のサンドリヨン』

      第19回鮎川哲也賞受賞作。また、昨年末から今年の頭にかけて投票が行われていた「twitterユーザーが選んだ東京創元社の本2009」という企画では第2位に入りました。

      おっとり系男子高校生・須川くんの一人称視点で、マジックが特技のミステリアスな女子クラスメート酉乃さんが、学校内で起こるさまざまな不思議を解き明かしていくのを描いた連作短編集。ヒロインがセミプロのマジシャンということで、ほかの子たちにない発想で謎解きができることにも説得力が生まれています。

      ここで取り上げられているのは、真相が分からなければ分からないで別に困らないけど、気づくとどうしても気になってしまう、いわゆる「日常の謎」的ミステリー。たとえば、1冊だけを除いてすべての本が逆向きにされた図書館の書架だったり、机に刻み込まれた謎の文字だったり、はたまたテスト結果が出る前から高得点者名とそれぞれの点数が記された状態で、鍵のかかった落し物ケース内に放置されていたと思われる手帳だったり。そして全篇を通じて、前年に自殺した女子生徒の幽霊の噂が漂います。

      視点人物である須川くんは、あだなが「ポチ」なだけあって人のいい素直な子で、酉乃さんが繰り出すダジャレにも気づいてあげられないおニブさんですが(指先の淡いマニキュアはしっかりチェックしていたりするくせにね!)、周囲を取り巻く女子たちは、みんなそれぞれ、心の奥底に複雑なものを抱えています。

      それはトランプを操る手先の華麗さとは裏腹に、人間関係の構築の仕方が非常に不器用な酉乃さんも、例外ではありません。そして最初はそれが分からないながらも、少しずつ彼女の内面を垣間見るようになっていく須川くん。王道ですよね! 少女マンガで読んだらすごくハマると思うんだけどなあ、この話!

      酉乃さんに惚れている須川くんの一人称で綴られる本書の地の文には、彼女の可愛さ美しさ清楚さ繊細さ神秘性が微に入り細にわたり繰り返し熱烈に描写されていて、正直もう「はいはい、分かった分かった(笑)」と肩をぽんぽん叩いてあげたくなる感じなので、マンガ化するなら彼女の美少女っぷりをばーんと初登場のコマを一目見ただけで理解できる絵柄のひとにお願いしたい。あ、もう一人タイプの違う美少女が登場するので、その辺の描きわけもすごく重要。
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        古屋安雄『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか 近代日本とキリスト教』

        2007年から2009年のあいだにあちこちに掲載された論文や講演内容を収録。著者は、日本基督教団(プロテスタント)に所属する神学博士でいらっしゃいます。

        アメリカからのプロテスタントの宣教師たちが日本本土に上陸したのが1859年だったそうで、この本が出版された2009年がちょうど「宣教150周年」という節目の年。それもあって、その少し前から「日本におけるキリスト教の今後」に対する提言というかたちでの発言がほうぼうから求められていたようです。

        さて、実際に果たしてどの程度、「日本にキリスト教は広ま」っていないのかということですが、本書によると、韓国のクリスチャンは総人口の30%、中国では5〜10%(政府非公認の教会を勘定に入れるかどうかで数字が変わるみたいです)、そして日本では、0.8%だそう。まあたしかに、アジアの中では少ないですよね。

        著者は、キリスト教が日本で根づきにくかった理由として、アジアのほかの国ではまず、貧しい労働者階級が宣教の対象となったのに対し、近代化の始まった日本で最初にプロテスタントの思想に接したのは、士農工商の「士」に相当する知識階級の人びとだったことを挙げています。

        結果として、日本の教会は「武士道」を前提とした抽象的な神学議論が繰り広げられる、庶民にはいささか参加しにくい場所になってしまった、と。また、church の訳語として最初に提案のあった「公会」が却下され「会」が定着したことにも象徴されるように、信者が集うところは「教え」を授かる場すなわち「学校」のように捉えられ、現在でも信仰を生涯にわたって実践していくのではなく、頭で理論を突き詰めてひととおり納得すると「卒業」していく信者が多い、と。

        実際、海外でキリスト教に接して入信したひとは、帰国後に日本のプロテスタント教会の礼拝に参加して、あまりの辛気臭さ(という表現はもちろん本書ではしてなかったけど、まあそういうことでしょう)に「葬式のようだ」とショックを受けることがあるのだそうです。

        まあこの辺は、もしかしたら失礼ながらプロテスタント(あるいは日本基督教団)特有かも。個人的な話を書くと、私は物心つく前から14歳まで、亡き実母が信者であった関係で、英国国教会の流れをくむ日本聖公会の礼拝を比較的身近に感じて育ちましたが、小学生時代にアメリカで Episcopal Church(米国聖公会)の礼拝に出ていたときも、大人になってから本場イギリスで偶然、国教会の礼拝の場に居合わせる機会があったときも、「礼拝の雰囲気って、国や言語が変わっても基本的には同じなんだなあ」という印象を持ちました。

        日本にキリスト教を広めていきたい立場にある著者は、こういった「日本の地味な礼拝に馴染めない信者がいる」問題については、福音派の教会を視野に入れるといいのではということを述べています。たしかに、13歳のとき誰かに誘われて福音派の礼拝に参列してみた聖公会育ちの私が、「テンション高すぎでしんどい」と感じたくらいなので、あっかる〜い礼拝が好きな人には向くかも(笑)。

        改めて実感したのは、結局のところ宗教的活動を形成しているのは「人間」なのだという、当たり前の事実です。

        同じ神を信仰しているはずの人たちだって、解釈の違いなどで細かい宗派に分かれてしまうし、文化的バックグラウンドや居住地域によって、信仰生活を維持しやすかったりしにくかったりする。はたまた、その時代のそれぞれの国の政治に翻弄された結果、同じであるはずの信仰を根拠として、国によって戦争に参加する人と兵役拒否をする人が出てきてしまう。

        あくまでも「キリスト教を推進していく」側の視点から書かれている本ですが、宣教開始時の背景や武士道、そして天皇制や世界大戦との関係と絡めて、日本における(プロテスタント系)キリスト教の特性や特異な現状を読み説くという視点が新鮮で、信者でない人間にも興味深く読める内容でした。
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          Robin McKinley "Spindle's End"

          今頃になってようやく2010年初の更新ですが、本年もよろしくお願いいたします。

          で、これが今年の読了1冊目。ペーパーバックで読みましたが、ハードカバー版は2000年5月に出版されています。

          そういえば去年も読了1冊目はマッキンリイ("Rose Daughter")でした。別に意図して揃えたわけではなく、"Rose Daughter"と同じく昨年1月に読んだ同じ著者の『サンシャイン&ヴァンパイア』の感想文中で、"Spindle's End" も読むと宣言したにもかかわらず、ずっと読まないままだったことに12月に入ってから気づいてしまい、慌てて読み始めたものの、年明け前に読み終われなかったというのが正直なところです(笑)。

          その感想文のなかでも引用したのですが、マッキンリイは『サンシャイン&ヴァンパイア』において、主人公に「眠ったまま王子さまが来るのを待ってるだけの眠り姫が許せない」というような主旨のことを言わせています。そして本書 "Spindle's End" は、まさしくその、おとぎ話の「眠り姫」を、マッキンリイ流にアレンジして小説化した作品なのです。つまり、マッキンリイ的に許せる眠り姫とはこんなのだ! というお話。

          日常生活に支障をきたしかねないほど土地全体に魔法が満ち満ちており、人間と妖精(フェアリー)が一緒に暮らしている、とある国で、王と王妃のあいだに長年待ち続けた第一子、女の子が生まれます。性別にかかわらず長子に王位継承権が与えられるこの国の、次期女王です。

          しかし大々的な名付けのセレモニーの真っ最中、王家に恨みを持ち国の征服をもくろむ「悪い妖精」パーニシアが突如として現われ、王女には「21歳の誕生日までに錘で指を刺して永遠の眠りにつく」という呪いがかけられてしまいました。

          辺境の地からやって来て、最前列で見物していた妖精の少女ケイトリオーナは、儀式が中断された混乱のさなかでとっさに赤子の姫を抱き上げてあやし、自分に唯一できる贈り物として「動物と話す力」を授けてしまったことから、王家に仕える年老いた妖精に姫の身柄を託されて、密かに故郷へ連れ帰り、共に暮らすおばと一緒に育てあげていきます。

          そこからは、本名の一部を村娘風にアレンジしてロージィと呼ばれることになった王女が、自分の本当の身分を知らぬまますくすくと奔放に、まったくお姫さまらしくなく、しかし愛情に包まれて幸せに成長してゆく日々が、延々と事細かに語られます。本書の大部分がここに費やされている。

          マッキンリイ作品の真骨頂は、この「こまごまとした部分にこだわった生活感」にあると思うんだ! なかなか大きな事件は起こらず、ゆっくりゆっくりと作中時間が流れていくので時折もどかしく感じるところもあるのですが、ディテールのひとつひとつを楽しんで読みました。

          ロージィの成長過程には、ところどころ皮肉が効いていて、そこはかとない可笑しみも。たとえば、名付け親となった妖精たちから「金髪の巻き毛」だの「ミルクのように白い肌」だのを授けられたはずなんだけど、そのとき誰も「整った顔立ち」を贈ってあげなかったため、総合的にはそんなに美人には育たなかったとか。せっかくの巻き毛も本人の意向によりぱっつんぱっつんに切られてしまっているとか。「銀の鈴を振ったかのように美しい歌声」を授けられたにもかかわらず、じつは生来の音痴だったため、いくら声そのものがよくても歌として成立してないとか。

          一方で王女の里親となったケイトリオーナたちは、彼女の正体が当人や周囲の村人にバレないよう配慮しつつパーニシアによる探索の魔法に神経を尖らせねばならず、王家側は王家側で別のところに王女を匿っているよう見せかけてそこへの敵の攻撃に耐えているなど、それぞれ王女を21年間守りとおすために苦心しています。

          そんななかで、ロージィは村の鍛冶屋で馬に蹄鉄をつける手伝いをしているうちに、動物と話ができる能力を活かして馬以外の動物の面倒もみる獣医のようなポジションを確立したり、才色兼備な同い年の親友を得たり、その親友の恋に動揺すると同時に自分の初恋を自覚したりしながら(この辺の恋愛模様もまた、ちょっと複雑なことになってる)、徐々に呪いの発動期限である「21歳」に近づいていくのでした。

          そしてついに問題の誕生日の数ヶ月前になって真実を知らされたロージィは、最初は驚愕するものの、やがて毅然として自分にかけられた呪いに徹底抗戦する構えを見せます。王家に仕える力ある妖精たちはもちろん、ロージィの育ての親たち、そしてロージィの親友ピオニーも、協力を惜しみません。また、ロージィを慕う、地元の動物たちも。

          そう、誰も、悪い妖精に定められた結末を運命として従容たる態度で受け入れたりなんか、しないのです。

          けれども、果たして本当に、一度かけられた呪いを無効化することができるのでしょうか? そしてたとえ永遠の眠りにつかずに済んだとしても、これまで粗忽で単細胞な村娘として育ってきたロージィは、本当にこれから、王位継承権第1位のプリンセスとしての覚悟を持って王室でやっていけるのでしょうか? また、村娘として恋をした相手との未来は?

          クライマックスにかけての展開は、かなりの力技。最初に言及した『サンシャイン&ヴァンパイア』でヒロインが主張したとおり、本当に、王女本人と悪い妖精が直接対決して戦っちゃってるよ!(というか、執筆年代はこの "Spindle's End" のほうが古いので、『サンシャイン……』でヒロインにああ言わせたとき、著者の念頭には過去に自分が書いたこの作品があったと思われ。)

          はじめのうちこそ、どうせ最終的にはおとぎ話のセオリーどおり王子さまと結ばれて「めでたしめでたし」なんだろうと思いつつページをめくっていたわけですが、さまざまなオリジナル要素が絡んでどんどん原典から逸脱していくのが、「もしかして、最後はいまいちハッピーじゃなかったりする?」と、じわじわ不安を煽ります。だいたい、このお姫さま、王子さま(一応出てくる)のことは、単なる「いい人」としか思ってないし!

          結局どうなったかをここでネタバレすることは控えますが、マッキンリイは、人間が持つこの世での役割が、生まれなどの外部的な条件ではなく個人の資質や自覚、意志の力によって定まっていくことを、自分が創り出す物語のなかではゆるぎない鉄則としており、原典のあらすじを踏まえつつ、その点では従来のおとぎ話の基本パターンに否を突きつけているのだと解釈しました。

          またその反面、文体そのものは饒舌なわりに、語り口のトーンが淡々としていて、演出としてメロドラマ的に大仰な盛り上げかたをしていないせいか、これだけフリーダムに作者独自のアレンジが入って「小説」化されているにもかかわらず、作品全体としては本来の「昔話」としての素朴な雰囲気も保たれているように思いました。枝葉末節を取り除けば、根幹のストーリーラインはシンプルなままだと言うのも大きい。

          ヒロインが近隣に棲息するありとあらゆる種類の動物たちと意思を疎通させ、彼らに一目置かれ頼られ支えられているようすも、どこか神話的に感じます。
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            西澤保彦『身代わり』

            匠千暁(タック)、高瀬千帆(タカチ)、辺見祐輔(ボアン先輩)、羽迫由起子(ウサコ)の大学生4人が中心になった、シリーズ9冊目、長編としては6作目。

            時系列としては『依存』でタックの抱えていた重い過去が引きずり出され、タカチとタックが一蓮托生宣言したあとの話。もう完全に「ふたりの世界」ができあがって、ほかの人たちとのあいだには線が引かれてしまっているんだと思うと、祝福したいような、妙に寂しく切ないような(だってほら私、ボアン先輩派だから!)。

            それと『依存』を読んだ段階では、タカチという無条件の味方もいるわけだから、このままタックははっきりと浮上方向に行くんだろうと安直に思っていたら、このお話の前半段階ではまだ危ない状態だったのですね。それで、この作品のなかでやっと、これからも生きていこうという気になる。もちろん、短編集ではすでに卒業後の話が何度か出てきているので、最終的にはちゃんとタックは踏みとどまるんだ、大丈夫なんだってことはあらかじめ分かっているんだけど。

            不可解な言動の末に不名誉な死を遂げたノイローゼ気味の大学生。留守番中に誰かを家にあげて殺されたらしいエキセントリックな女子高生と、同じ家で数時間後に死んでいた生真面目な若い警察官。一見、つながりのない事件だけれど……やっぱり、つながりなんて、ない? 最初に亡くなった大学生が直前までボアン先輩主催の飲み会に出ていたことと、殺された警察官がタックの高校時代の同級生だったことから、主人公たちも事件に接点を持つようになります。事件の真相は、それほど驚くような画期的なトリックが使われているわけでもなんでもないんだけど、パズルのピースを組み合わせたように寒々と無機質で、できればそっち方向の回答であってほしくないな、と目をそらしがちだったほうへ、推理はずんずん進んでいきます。

            西澤作品に出てくる登場人物って、被害者も加害者もそれ以外の周辺の人たちも、ときに病的なくらいに壮絶に自己中心的だったり支配欲があったりといった「歪み」を持っていて、それが事件につながっていくわけなんだけど。事件描写よりも、そっちの心理説明がいつも、怖くてぞわっとします。他人の命や痛みをまったく顧みない人間がこの世には存在するんだということが、共感だってできると言い出しそうなほどあまりにも当たり前な感じに淡々と書かれているので。そして読んでるこちらも、心の片隅のどこかで、実際ここまで極端な人間も、本当にいるのかもしれないなと思ってしまっているので。

            でもボアン先輩の「夏の名残を慈しむ日」には、かなり和んだ。あと、コイケさんって、サブキャラなのでついついスルーしてしまいがちだけど、あとからじわじわと気になってくる謎の多い人だよなあ。
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              西澤保彦『黒の貴婦人』

              前に一度、読んでいるのですが、さっぱり内容が思い出せなかったので、今年の9月に出たシリーズ最新作『身代わり』を読む前におさらいしようと単行本(2003年11月)を図書館で借りてきました。文庫版を絶対に買ったはずなのに、どうしても自宅内から発見できなかったのです(よくあることだ……たぶん私は読み終わった本の保管方法をもっと真剣に考えたほうがいい)。なんか悔しい。

              しかも、あとで『身代わり』の感想のところに書くつもりだけど、『身代わり』のためのおさらいとしてなら、むしろこの『黒の貴婦人』よりさらに前に書かれた『依存』を再読したほうがよかったみたいですよ。そして『依存』も、この家のどっかにノベルス版が絶対あるはずなのに、どうせ発見できないんですよ。ちっ。

              とにかくこれは、「タック&タカチ」シリーズ(と、私は呼んでいるけど、公式な名称が存在しないため、シリーズタイトルについては諸説あるらしい)8冊目、時系列バラバラの短編集。

              久々に読むと、西澤作品の登場人物のセリフ回しって、なんだか現実離れしていてすごいよなあ。みんな物言いが舞台っぽい、芝居がかった感じというか。でも、西澤ワールドなら許せるような気がしてくるのが不思議(笑)。

              「招かれざる死者」
              タックたちは大学3回生。タカチとウサコがやむなく参加した俗物おぼっちゃま新入生のパーティで、別の女子学生が死体になって玄関先に現れた。物証を確認に行ったりせず、友人同士の話し合いのなかで論理を詰めていくだけという、このシリーズ(特に短編)の基本パターンである「妄想推理」形式は相変わらず。

              「黒の貴婦人」
              『スコッチ・ゲーム』直後。毎日呑んだくれているボアン先輩と同じお店に必ず姿を見せ、一日たりとも注文を変えることなく絶対に鯖寿司を食べていく《白の貴婦人》の目的は? これも、ものすごい妄想推理。お話の主眼はしかし、白の貴婦人の心の動きをトレースしてみせる、《黒の貴婦人》ことタカチ自身の偏執的とも言える決意のほうですね。この決意が『依存』につながっていくわけだ。

              「スプリット・イメージ〜または避暑地の出来心〜」
              すでに大学を卒業してフリーターになっているタックが登場。この辺からやっと「ああ、たしかにこの本、前に読んでるわ」と記憶がよみがえってきました(おい)。これはいちおう、妄想推理だけに終わらず事件が決着を見るところまで書かれています。でもいちばん力が入っているのは、第三者の目から見たタカチの高潔で現実離れした美しさの描写なんじゃないのか(笑)。

              「ジャケットの地図」
              これも大学卒業後。中心となっている謎が、すでに死んじゃってる人の行動の裏の心理なので、やはりばっちり妄想推理の要件を満たしています。しかし、タックがタカチとのツーショット写真を部屋に飾っていることに、ちょっとびっくりした。意外と乙女!?

              「夜空の向こう側」
              ついに《キャンパスの牢名主》の異名を返上して卒業・就職したボアン先輩に、大学院在籍中のウサコが親戚の結婚式での不審なできごとについて相談する。ふたりの会話から、タックとタカチの近況もなんとなく分かってきます。これは、ねえ。謎解きよりも、とにかくひたすら、ボアン先輩に幸せになってほしいなあと思わざるを得ない。「タック&タカチ」シリーズとして認識はしているけど、じつはボアン先輩が大好きだよ私は。
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                香山リカ『しがみつかない生き方 「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』

                発売当初の帯の惹句が「〈勝間和代〉を目指さない」でした。まあこれは、本書第10章のタイトルそのまんまでもあるんですが。増刷分からはもう少しおとなしめなコピーに変わっていましたが、とにかくあれはインパクトがあった。

                そして狙いどおりだったのかなんなのか、その後、雑誌に勝間さんと香山さんの対談が掲載され話題になったりなんかもしたんでした。

                さて、内容なんですが。わりと、予想どおりかなあ、と。私は以前、勝間さんの推奨する生き方ついてはこんなことを書いていたくらいだから、当然、読む前から自分はどちらかと言えば上述の帯のキャッチコピーのターゲットに該当するタイプなんだろうと思っていたのですが、やはりそんなに目からウロコが落ちるようなことはありません。一応、サブタイトルにある「10のルール」を以下にメモっておきます。

                1. 恋愛にすべてを奉げない
                2. 自慢・自己PRをしない
                3. すぐに白黒つけない
                4. 老・病・死で落ち込まない
                5. すぐに水に流さない
                6. 仕事に夢をもとめない
                7. 子どもにしがみつかない
                8. お金にしがみつかない
                9. 生まれた意味を問わない
                10. 〈勝間和代〉を目指さない


                最後のルールで、「〈勝間和代〉」と、人名にカッコがついているのは、ここで言う〈勝間和代〉が、生身の人間としての勝間さんではなく、単なる純化された概念だからなのでしょう。自分に合ったやりかたで効率的に無駄を省いてがんばれば、きっといまより豊かな私になれると、ひたむきに信じて、そうじゃないネガティブな未来を考えないようにしているひとたちを表す、ひとつの象徴。

                この本はたぶん、そういうふうにはなれない、「疲れちゃった」ひとたちへのものですよね。ポジティブに攻めの姿勢でがんがんやれているうちはよいけど、実際には人生なんて自分の力の及ばぬところでどう転ぶか分からないし、転ばぬ先の杖にも限界ってものがある。そんなとき、「頑張れなかったのが悪いのだ」と矛先を自分に向けてしまわないための本。自分も周囲も理不尽に責めてしまうことなく、ただ自分にできることをやって、それ以外のところは現実を受け入れ、「否認」をしないでいる力を持つためのアドバイス集。

                常に前向きでいることも大変だけど、「しがみつかない」ことだって、時には難しい。香山先生はあくまでも精神科医としての立場から各論を述べていらっしゃるけど、「老・病・死で落ち込まない」なんて言われると、なんだか宗教チックな感じすらします。「うつせみは数なき身なり山川のさやけきみつつ道をたずねな(by大伴家持@万葉集)」みたいな。

                ちなみにこの「うつせみは……」っていうのは、高校の頃から現在に至るまでの私の座右の銘でございます(婆臭い女子高生とか言うなよ! ぜったい言うなよ!)。ここで言う「道をたずね」るというのは、いわゆる「求道」ですよね。本来は仏教用語なんだと思いますが、少女時代の私にこの和歌を教えてくれたひとが、神主の資格を取ったことのあるクリスチャンだったので、私のなかでは特定宗教あんまし関係なく解釈してオッケーってことにしてる(笑)。

                そんなものをモットーにしてみたって、実際のところ執着してしまうときはしてしまうし、手放せないものは手放せないし、心乱れるときは心乱れるものです。そもそも、「道をたずねな」の「な」は、(学校で古文の授業を受けていた頃があまりに昔なのでちょっと自信ないまま言うけど)願望を表す終助詞だ。大伴家持だって、むきーっとなることはあったでしょうよ。あるからこそ、山川のさやけきを思い起こしてどす黒くなってきた心を清浄化ようとしたりるすわけですよ。知らんけど。

                そして香山先生だって、しがみつかない生き方を読者に向かって説きつつも、決してご自身がすべてから自由なわけでじゃないってことを正直に書いていらっしゃいます。そういう葛藤がときたま行間からにじみ出ているところに、私はかえって好感を持ちました。

                 しかし、そこでふと「私はいったいどうなのだ」と思う。(中略)自問自答を繰り返す私も、結局は「いたかもしれないはずの子ども」に十分、執着しているのではないだろうか。子を持つ親たちに「子どもにしがみつくな」と言うのなら、私自身がまず、こういう自問自答から解放されなくてはならないはずだ。
                (『しがみつかない生き方』 p.146)

                要するに、悟りの境地に安住することなんて、生きてるかぎりは、きっとありえないんですよね。相当いい線まで行ったひとでも、出たり入ったりしてる。何かを追い求めてそのための手段を模索したり、少し疲れて停止したり、本当にこれを追いかけて大丈夫なのかとうしろを振り返ったり、長い目で見ればかなりくだらないのかもしれないことに一喜一憂したりを繰り返しながら、目の前に出てくるものをなんとかかんとか片づけていくうちに、いつのまにか時は流れていろんなものが積み重なっていって、そして寿命がつきるんだ。

                それにしても、私はたまたまこの本を12月2日に読み終えたのですが、ちょうどその2日後に、勝間さんが今度は「香山リカさんの『しがみつかない生き方』を読み、正直、迷ってしまっているあなたに読んでほしい、という気持ちでこの本を書きました。」という帯のついた『やればできる』というタイトルの本をお出しになったので、なんか笑いがこみあげてきてしまいました。まさしく、

                 それは、たとえて言えばこんなイメージだ。笑顔で誰かに、「がんばれば夢はかなうんですよ」と言われる。それに対して、こちらは真剣に「いや、がんばれない人、がんばっても夢がかなわない人もいるんです」と反論する。すると相手は、うなずきながら私の話を聞いたあとで、また笑顔でこう言うのだ。「努力さえすればどんな夢でもかなうんです」
                (『しがみつかない生き方』 p.187)

                これじゃないの? ていうか、まさかと思うけどこのおふたり、互いの本の売り上げを伸ばすために共謀してたりとか、しないよね?(笑)
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                  三浦展『シンプル族の反乱 モノを買わない消費者の登場』

                  2005年の『下流社会』(光文社文庫)が世間で話題になった頃から、お名前があちこちで目につき始めていたのですが、このかたの本を読んだのはこれが初めてでした。巻末の著者紹介を見ると、「カルチャースタディーズ研究所主宰。消費社会研究家、マーケティング・アナリスト。」という肩書き。そうだったのか、なるほど。

                  高級ブランド品や自家用車などに価値が置かれていた時代が終焉に向かっており、日本の消費傾向が変化してきているということを、さまざまな角度から検証し、企業もこれまでのように次々と新奇さで目を引くものを提供して顧客の買い替え欲に訴えかけていくという方針ではもうやっていけませんよ、みたいなことを提言している本。

                  まあ、基本的には、そうなんだろうなー、と思います。

                  ただ、この本で取り上げられている「シンプル族(著者の造語)」の概念が、なんだか私にはしっくり来ませんでした。いや、文脈的には分かるんだよ。分かるんだけど。バブル時代に海外ブランド品にがんがんお金を注ぎ込んでいたような人たちと対比させて、そういうのに踊らされない人種ってことだよね。

                  本書の最初のほうに、著者が考える「シンプル族の典型イメージに近い暮らしをしている人たち」へのインタビュー内容が、数ぺージにわたってずらずらと羅列してあるのですが、その辺を見るとどうやら、著者の言うシンプル族とは、要するに雑誌で言えば『ku:nel』とか『天然生活』に出てくるようなタイプの人たちがメインなんだなというのが、おぼろげに理解されてきます。ナチュラル系とかロハス系とか言われる人たちな。

                  でも……実際にはなんだかカオス(笑)。実例を詳しく見ていくと、和服に興味があって和の生活っていいなあと思っている人も、アジア諸国を旅するのが趣味でエスニックな小物で部屋を埋めてる人も、北欧家具にハマっている人も、物質的なぜいたくさよりも精神的充足に価値を置きたいと思うあまりスピリチュアル系に片足突っ込んでいる人も、自動車に乗るのをやめて自転車通勤を始めた人も、百貨店ブランドでなく機能性重視のユニクロや無印良品の服を愛用しコンビニ弁当を食べている人も、みんな一緒くたに「シンプル族」。

                  待て待て待て、ユニクロ着てコンビニ弁当を食べている層の何割かは、確実に単なるヲタkげふんげふん。著者はコンビニ弁当派については、若者なのでお金がないせいだろう(つまりお金があれば、ほかのシンプル族と同じように、野菜の産地や無農薬であることにこだわったり化学調味料入りのジャンクフードを忌避したりするだろう)というニュアンスで書いているのですが、どーーーーーかなーーーーー。個人的には、そうでもない人もけっこういそうな気がするよ。偏見?

                  それと、これも偏見かもしれないんだけど、こういうロハス系の人たちの一部には、現在はかつてのように分かりやすい海外ブランドなどがメディア上でオシャレとされていないから、こっち側に流れ着いただけ……みたいなタイプもいそうな気がしてるんですよね。そういう人は、あと数年早くに生まれてバブル時代が終わらないうちに成人していれば、あっけなくバブルにも乗っかって踊っていたんじゃないだろうか。職人さんが手編みする藁でできた3万円のおひつカバーを予約して1年待ちで買ういまどきのシンプル族も、バブル時代に老舗海外ブランドの定番品を「一生ものだから」と1年待ちで手に入れてた人も、メンタリティとしてはそう変わらないって場合もあるんじゃないのかなあ。

                  なんていうのかな、この「シンプル族」という語感に抵抗があるのかも。ここでシンプル族の主流として挙げられているような人たちの生活って、結局はいろんな自意識に縛られていて、少なくとも「シンプル」じゃないのでは、と感じてしまうんだ。使い古した木製の家具がおしゃれだから、自分で使い込んでいくのじゃなく他人がよい感じに使い古してくれたものを骨董屋さんでいきなり買ってくるとか。ブランド物にはこだわらないと言いつつ、食器は流通に乗ったものよりずっとお高い作家の一点モノとか。祖母から譲ってもらった良質な品です(と、さりげなくお育ちのよさや家族との絆をアピール)とか。何かこう、なんだかんだ言っても自分以外の何かによる価値づけ、バックグラウンドストーリーが必要なんだなあ、と。まったく同じような無地のスリッパが近所の西友にあったとしても、こういう人はきっと、わざわざ隣の駅の前にある無印良品まで買いに行くんだ。そして無印良品が平成元年までは西友の中の1ブランドだったことなんて、すっかり忘れたフリをしているんだ(笑)。

                  ……話がずれました、ていうか最後のほう偏見による妄想が暴走しました、すみません。ついでに白状しとくと、私自身のモノに対する好みなんかも、本書で示されているシンプル族的な感覚に、じつはわりと近いかもしれません。ただ、生活を隅々まで自分のコントロール下に置こうとしてしまう心の動き(たとえば、市販のシャンプーの容器はデザインがごちゃっとしていて気にくわないので別途入手した容器に入れ替えます、みたいな)が、ときどき自分でもなんか気負いすぎてる感じがして恥ずかしくなってくるんですね。って、それ私のほうがよっぽど自意識に縛られとるわ!

                  それはともかく。まあ要するに、この著者の言葉の使い方が、なんだかあちこち引っかかる、という話ですよこの感想文の本題は(え、そうだったのか、いま自分でも初めて気付いたぞ!)。

                  「シンプル族」というくくりの大まかさ然り、著者による「ジェネレーションZ調査」なるものが唐突に登場すること然り。これまでの著者の本をずっとチェックしてきた読者ばっかりじゃないんだから、まずその「Z」の中身を説明してくれ! と思っちゃう。あるいは「インテリ自己実現系」なんてカテゴリーが出てくるんだけど、そこに属する人たちは何を基準にそこに振り分けられているのかという話が説明がまったくないため、あいまいなイメージのみで読み進めざるを得ない、とか。

                  そう、私がマーケティング用語に詳しくないだけかもしれないんだけど、予備知識のない状態だと、とにかくイメージ先行で乱暴にカテゴライズしているのでは、と感じてしまう箇所が多くて、なんだか不親切に思えてしまうし、読んでてしんどいのです。

                  まあでも、今後景気が回復したとしても、消費者がバブリーだった時代の価値観に大量回帰することはもうないだろう、というのにはわりと同意、かな。
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                    Debbie Macomber "Summer on Blossom Street"

                    シアトルの毛糸屋さんを舞台としたシリーズ……えーと、たぶん4作目。

                    今年の夏から、邦訳も日本のミラ文庫から刊行され始めて、すでに3巻まで出ているようなので、興味があってロマンス小説レーベルに抵抗のないかたは、「デビー・マッコーマー」で検索してみてください。なんかね、原題の淡々としたシンプルさとは裏腹に、とってもリリカルな(←最初に思いついたのは別の形容だったけど敢えてこう言ってみた)邦題になってますよ。日本語版で出会っていたら、たぶん手に取れなかった(笑)。

                    店長リディアが決めた今回の編み物教室テーマは、"Knit to Quit"――何かをやめるための編み物です。韻を踏んでて語呂のいい講座名。また、青春時代を難病との闘いに費やし、治療の辛さや死への恐怖を、編み物に没頭することで紛わせ乗り越えてきた、リディアらしい発想かもしれません。

                    レギュラーキャラとなったアリックスは、前作 "Back on Blossom Street" での問題山積みな結婚式準備のイライラにより復活してしまっていた喫煙習慣を、すっぱり断ち切って妊娠に備えたい。

                    フィービーは、自分を裏切った元婚約者のことを考え続けてしまうのをやめたい。でも傷つきすぎている彼女は教室では事実を口に出せなくて、婚約者を結婚式直前に亡くしたと嘘をついてしまっています。

                    初の男性参加者ブライアンは、父から引き継いだ会社の経営や訴訟問題で頭をいっぱいにしているうち、身体に影響が出るほどのストレスを溜めてしまい、親しい医師に編み物で気分転換してはどうかと勧められた。

                    さらに、同じブロッサム・ストリートで書店を営むアン・マリーは、紆余曲折の末にようやく正式に養子縁組できた9歳の娘エレンとの生活を楽しんでいたが、「エレンの本当の親」だという人物からの突然のコンタクトに心乱される。(どうやらこのアン・マリーは、同じ著者の別作品 "Twenty Wishes" の主人公みたいです。先に始まったこのシリーズが本流で、あっちはスピンアウトということになるのかな?)

                    そして過去の病気のせいで自分の子を産むことができないリディアは、新生児を養子として引き取ることを希望するが、アン・マリーから紹介されたソーシャルワーカーに押し切られて、いきなり反抗的な12歳の少女ケイシーを預かることになってしまう。

                    いつものように、1章ごとに視点を切り替えながら、登場人物たちの友情や家族、恋愛の問題が語られていきます。

                    第1作でのメインキャラのうち、私はアリックスがいちばん好きだったんですが、彼女だけが最新作に至るまでずっと編み物教室に参加し続けているということは、著者もアリックスが好きで、ほかの読者にもアリックスが人気だったんでしょうね。

                    今回、あらためて「アメリカだなー」と思ったのは、血のつながらない、互いの意志の力のみによって維持されている親子関係が、まったく特別でもなんでもない、とても自然なこととして、あちらでもこちらでも出てきたことでした。そういえば、1巻目のときから、そういう要素はあったわけなんだけど。

                    そもそも、主人公のリディアだって、夫はバツイチ連れ子つきで、その連れ子のコーディとリディアは、ふたりが結婚する前から、互いにうまいこと歩み寄りできていて。

                    現実には、こんなふうに上手くいくとはかぎらないのは分かってる。でも、上手くいかないと決めつけるもんでもないよね? フィクションの世界くらいは、ハッピーエンドで。そしてできれば、フィクションじゃなくても。

                    さて、すでにくっついてしまってるひとたちはともかく、新たに登場してくる独身女性たちの恋愛模様については、前の巻あたりから、一部あからさまにハーレクイン入ってきたような気がしています(笑)。ものすごい偶然の一致があったり、変にスケールでかかったり、ヒーローが御曹司だったり。いや、本家本元のハーレクインをきちんと読んだことないんでよくは知らないんだけど、なんとなくのイメージで。まあでもMiraっていう出版社も、(私は「舞台がシアトルだー!」というだけで、よく知らずに手を出してしまったけど)母体はハーレクインと同じなんですよね? 少しずつゴージャスさを増しているのも、本国の読者需要を考えてのことなのかも。


                    ※これまでの感想※
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