引っ越してきました

2003年12月から2008年12月まで、5年間ずっとあれこれ(水面下で)試行錯誤しながら使ってきたMovable Typeとお別れするのも寂しい気がして、しばらく迷っていたのですが、やっぱり既存のブログサービスが楽かもしんない、と思って、今までのところからロリポブログに移ってきました。

新しいブログでの、記事やカテゴリのリストが表示された感じを確認したかったので、この記事の前にビールラベル画像や、むかしサイトに載せていた古い文章を投稿してみていますが、実質的にはこの記事が、引っ越しして最初のエントリです。

ありがとうMovable Type、さようならMovable Type(アンインストールはせずに残しておくけどね!)。

MTの使い勝手そのものには、いままで特に不満はなかったです。ただ、機能的にはまったく不満を感じていないのに、脆弱性などの問題で時々アップデートしないと不安、そしてアップデートしたらしたで、下位バージョンとの互換性がない部分を見極めてちまちまと手直ししないといけない……というのが、今後もずっと繰り返されるなら、この辺でもう手を引いちゃおうかなあ、と。

先月、久々に最新バージョンに上げてみて、けっこう苦労しちゃったので(最初の上書きアップデート時には、やたら不具合が多くてしかも異様に動作が重く、結局、いったん全部削除して最初から最新版をインストールしなおした)。いまひとつきちんと理解していないまま、見よう見真似でカスタマイズしながら使っていくのも、そろそろ限界かもって思ってしまいました。

自宅で仕事していて一日中パソコン前にへばりついていた頃は、そういうのをいじるのも、データ待ちのときなどに、ちょうどいい息抜きだったんですが、いまは状況が変わっているし。

それでも、ここ数日このロリポブログのテンプレートをカスタマイズしていて、やっぱりMTのほうがよかったと感じた点も多々ありました。たとえば、表示に関するちょっとしたこだわりが、やはりお仕着せのブログでは、実現できないのです。MTに比べて、テンプレート編集に使う独自タグが、すごく簡素化されているような気がする。

MTは、「こういうことってできるのかな?」と思って検索したら、大概の場合、誰か偉い人がすでにプラグインを作ってくれていたからなあ(他力本願)。実際に使いこなせるかどうかはさておき。

ほかのブログサービスの使い勝手は知らないけど、やっぱりカスタマイズの自由性っていう点では、自分で設置して、あれこれ調べながらいじっていくのがいちばんなんだろうと思います。その時点ではやりたいことができなくても、頑張ればそのうち何か方策は見つかるんだろうなって希望を持てるのが、いいところだった。

でもまあ、そういうこだわりって、きっとほとんどが、見る側にとってはどうでもいい、管理人の自己満足なんですよね。そういうこと言う前に、まずはなんか書いて更新しろよって感じですよね。

そのうち、あらかじめカスタマイズできる範囲が限定されているこのブログにも、慣れてくるでしょう。

そんなこんなで、今年からは、こっちでまた、だらだらと更新したりしなかったりしていくつもりです。

そういえば、年が変わったというのに、まだ一度もご挨拶をしていませんでした。2009年も、よろしくお願い申し上げます。
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    千と千尋の神隠し

    (2002年8月17、19、22日に書いた感想をつなげてリライト)

    2001年/日本
    原作・脚本・監督:宮崎駿
    声の出演: 柊瑠美, 入野自由ほか

    DVDで鑑賞。作品そのものは、とても気に入りました。ストーリーラインがシンプルな分、映像の面白さを堪能できました。アニメならではだよね、こういうの。

    いろんなものについて、「なにかを象徴している」臭がぷんぷんするのですが、お説教臭いほどあからさまではなく、あっさり言語化できないかんじが好き。日常部分とのギャップも鮮やか。冒頭の、主人公の言うことをまったく取り合ってくれない両親のイヤさかげんなんて、リアルすぎて気持ち悪いくらい。ああ、子供の頃、よくこういう感情を味わったなあ、と。あの頃、親の方は、子供側の主張こそが理にかなっていないと思っていたんだろうなあ。

    しかしなんといっても、主人公が迷い込んだ不思議な温泉街のお湯屋さんにやってくる、やおよろずの神々の造形がとにかく楽しい。お風呂に入ってのへらーっとしてるシーン、めちゃくちゃ気持ちよさそう。

    ここと、そのちょっと前の橋を渡るシーンでちらっと登場する、巨大ヒヨコの頭のてっぺんに果物のヘタを付けたような神様集団が、ものすごーく好きなのです。この方々のためだけに、自分でもDVD買ってしまいたいほどです。セリフもなんもないし、主要キャラとの絡みも皆無なので、正式名称は分からないのですが、我が家ではすでに「ぴよの神」という呼び名が付いております(註:のちに公式サイトのキャラクター紹介ページを見たら、この神様の正式名称は「オオトリさま」だそう)。あとで観なおしてみて、あの頭のてっぺんの「ヘタ」はどうやら帽子の一種であることが判明しました。屋内にいるときには脱いでいるっぽい。お湯屋さんに滞在中は、どこかにずらっと、あのヘタが並べてあるんだろう。

    DVDプレイヤーのスキャンボタンと一時停止ボタンを駆使してチェックした結果、浴衣を着たぴよの神、廊下で宴会をするぴよの神、ぱたぱたと宙に舞い上がるぴよの神なども発見。あああああ、かーわーいーいーよーーー。ぴよの神、素敵だなあ。かわいいなあ。ぴよの神のぬいぐるみとかあったら欲しいなあ(値段によるけど)。

    ところで、やはり上でも少し触れた、主人公の両親の描かれ方の「リアルなイヤさ」についてはなんだか、かなり引っかかっています。

    主人公の少女・千尋の両親は、『ピーターパン』に出てくるウェンディたちの両親みたいな、ネバーランドへ行って戻ってきた我が子を涙で迎える慈愛に満ちた親ではありません。もちろん、悪い人たちじゃない。ごく普通の、当たり前に子育てしている、常識的な夫婦です。ただ彼らは、物語の最初から最後まで、決して千尋とまっすぐに目を合わせることがありません。それに、親子が元の世界に戻れなくなったのも、もとはといえば、この両親の無分別な行動のせいです。

    それでも千尋は、ハクや釜爺、リンたちの助けを得つつ、両親を助けるために奮闘します。不思議の町で出会った人々がどれだけ親切で、彼女のためを思っていてくれても、一番大切なのはお父さんとお母さん。それが私には、なんだか哀しい。年若い子供から親への愛情って、どうしてこんなにも無償で無条件なんだろう。親は子供に対し「こうあってほしい」という要望を押し付けてしまうことがあるけれど、大概の場合、子供は自分の親を、たとえ不満があってもありのままに受け入れます。どんな親でも、その親のせいでどんな窮地に陥っても、子供にとって親は絶対であり、判断の基準であり、幼く非力なうちは自らの生命を預ける相手。万が一、絶対的な愛情を注げなくなった場合には、罪悪感を抱いてしまう。この物語の主人公がまだ10歳前後であると思われるので、余計に切ないのかも。この少女にとってすでに親とは、自分を守ってくれるものではなく、自分が守らなければならないものとなっている。そしてそのことに、親たちは気付いていない。けれどこの子は、それをまっすぐに受け止める。

    自分を導くものであったはずの存在が、実はそうではなく、常に正しいと思っていた存在が、時に理不尽な言動を取ることもあると知るときの痛み。そう、オトナなんて、コドモが大きくなっただけのものに過ぎないのだ。どんなオトナだって。私だって。歳を取ったからって偉いわけじゃないという事実を認識するのは、オトナにとっては、生きやすくなることだけれど、コドモにとっては、どうだろう。「オトナは完全じゃない」という考え方をすんなりと受け入れられるようになっていくのが、すなわち、オトナに近付くということなのかも。少なくとも私はそうだった。

    ただ、それはそれで、前向き結末であるなような気はしています。帰りのトンネルで、「そんなにくっつかないで」と邪魔そうに言われても、千尋はお母さんから手を離したりしません。両親は両親なりに、千尋に愛情を注いでおり、突き放すことはないと分かっているからだと思う。そしてたとえ自分と視線を合わせない両親であっても、彼らが自らの陥った危険に気付いていなくても、千尋自身が彼らを窮地から救いたいと思い、実際に救うことができたという満足感があり、そしていざとなれば彼らがいなくても生きていける自分に気付いたうえで、やはり彼らのことを好きだと自覚しているのなら。ちゃんと、ハッピーエンドだと思うのです。


    千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
    千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
    柊瑠美,入野自由,内藤剛志,沢口靖子,夏木マリ,菅原文太
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      誰が彼女を責められる(女三宮の話)

      (初出 1998.04.01)

       高校3年生のときの古文の先生はやたらと『源氏物語』が好きで、結局その1年間、古文の授業ではそればっかりやっていた。『源氏物語』をみっちりやれば、受験に必要な古文の文法くらい充分身についてしまうであろう、というのが先生の言い分。ま、結構真理だったかもしれない。

       私自身は当時、なよなよとした文体の源氏よりも『平家物語』とか『奥の細道』みたいにしゃきっとした和漢混交体っぽいスタイルのほうが恰好いいよなあなどと生意気なことを思っていたので、ちょっと不満だったりもした。この辺、実は今思えば死んだ実母の影響なのだが。

       とまれ、平安時代のお姫様というのは、とっさにかっこいい和歌が詠めたりして「(平安時代の基準での)都会的センスが身についてる」のが必須条件である。だもんで作者の紫式部は、主要キャラの引き立て役と定めた人々に関しては「なんか洗練されてない様」が分かるエピソードをこれでもか、これでもか、と連ねたりするのである。鼻の赤い末摘花なんかもう、こてんぱんだったよね。

       しかしそういうセンス悪い人々のなかでは少しだけイレギュラーな存在が、源氏の妃の一人「女三宮」ではないかと思うのだ。のちに不倫して、表向きには光源氏の子である赤ん坊を産んだあと出家しちゃう人。光源氏の奥さんたちの中でもダントツに身分の高いこの女の子が正妻の座を得たために、紫の上は心労のあまり病気になって、それでも死の床で「おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露」なんて比喩センスあふれる和歌をさらりと詠んだわけである。

       女三宮以外の登場人物で、作者から「センスないやつ」という烙印を押されている人というのは確か大抵、田舎育ちだったり、身分が低かったり、容姿に恵まれなかったり、貧乏だったのでお姫様教育を受けられなかったりという設定になっているんだけど、この女三宮って子は非常に高貴な血筋をもっているし、見た目も末摘花みたいに悪かない。ずっと都育ちで、帝であった父親に溺愛されて贅沢三昧で大きくなった。環境的にはものすごく恵まれているのだ。なのに、今ひとつ垢抜けない。和歌もそんなに上手くないし、十二単の配色センスもパッとしない。ほっといたら猫抱いてぼーっとしてるだけ。

       それでも光源氏は、彼女の血筋に初恋の人、亡き桐壷の女御の面影を求めて、つい妃に迎えてしまう。どこをどう取っても良くできた奥さんである紫の上を悲しませてまで。そして結局、紫の上とは比べるべくもない女三宮の気のきかなさに嘆息してみたりする。

       例の古文教師(夕顔の君と紫の上のファン)などは授業中に、女三宮のことを「あのボンクラな奥さん」とまで言い捨てたものである。私の生みの母も、源氏物語の登場人物では女三宮を一番嫌っていた。

       でもね。高校時代の私は、女三宮が可哀相でならなかったよ。

       「才があっても身分などのせいで洗練された文化に触れることなく生涯を終える人も多かった時代に、せっかく恵まれた贅沢な環境にいながら全く自分を磨く努力をすることなく、のほほんと無自覚のまま大きくなって自業自得で不幸になっていく甘えた馬鹿女」が大嫌いなのだと、私の母は言った。

       でも、それって仕方なかったんじゃないだろうか。のほほんとしてちゃヤバいよ、ってことを彼女が悟る機会はなかったんだから。

       紫の上なんて人はね、幼い頃から既に「子供」じゃなくて「女」として育てられてしまっているんです。親から引き離され、光源氏のところに貰われてきて、じわじわと「妻教育」を施される。そんな環境の中で、もともとの利発さも手伝って、否応なく自分の立場を悟り周囲の期待に応え、数多い源氏の女たちのなかでも一番よくできた妻としてのポジションをキープするようになっていく。そうやって自分を磨いていかなければ、彼女の居場所はどこにもなくなってしまうんです。そのためだけに引き取られ、手間暇かけて贅を尽くして養育してもらっていたんだから。

       しかし女三宮は違う。

       目に入れても痛くないほどの可愛がり方をしてくれた実の父なら、彼女が利発であろうとなかろうと、無条件に彼女を受け入れてくれていただろう。女三宮はおそらく、「自分を高めていかなければ周囲に見捨てられる」というような脅迫観念は全くなしに大きくなっている。

       だから、彼女はどんなに戸惑ったことだろう。茫然としたことだろう。何も要求してくることなく愛情を注いでくれ蝶よ花よと育ててくれていた父が亡くなり、絶世の美男子と言われる人であるとはいえ、いきなり親子ほども歳の離れた男の妻にされる。男は冷めた目で、彼女の「女(つま)」としての「スペック」を計算している。彼女はそれまで一度だって、「愛されるべき父の娘」として以外のポジションに置かれたことなどなかったというのに。

       たしかに、あまり利発な女の子ではなかったのでしょう、女三宮は。少なくとも、自分を取り巻く環境の激変にすばやく適応してサバイバルしていけるほど要領のいい子ではなかったでしょう。だから、ただ茫然としているだけで月日が流れていってしまったのでしょう。それまで誰も彼女に「子供の時間はいつか終わるのだよ」と教えてくれた人はいなかったし、残念ながらそれを自分で悟ることができるほどカンのいい子供でもなかったのでしょうから。たとえ漠然と危機感を覚えても、どうすればいいのかが分からなかったのかもしれない。彼女は溺愛されて育ったがゆえに、とても無力な女の子になってしまっていたのだ。

       それを、どうして責められるだろうか。子供は、育てられ方を自分で選択できない。

       彼女はまだ、ついこの間、遅まきながら父の庇護のもとを離れたばかりなのだ。全ては、これから始まるはずだったのだ。なのに世間は彼女を、「源氏の妃となったからには既に完成品であるべきもの」と見なす。本当は彼女にとって、全てはこれからだったのに。

       多分17歳の私は、無力な女三宮に「無力な自分」を重ねていた。

       どうして、何もかもが思うように行ってくれないのだろう。どうして、何をどうやっても、周囲の失望を招いてしまうのだろう。どうして、私が私であることを、認めてもらえないのだろう。

       そして女三宮が「甘えた馬鹿女」だから嫌いだと言っていた私の亡母も、その馬鹿女に娘である私を重ねていたのではないか。不自由なく育てられたにも関わらず突出したところの全くない、どちらかというと頼りない雰囲気の子供でしかなかった私を。様々な期待を裏切ってこのまま平凡な人生を歩んでいく兆しを既に見せはじめていた私を。無力な女三宮に重ねていたのではないか。私には、そう思えてならなかった。

       どうして、私が今の私であるだけで充分だよと、誰も言ってくれないのだろう。

       けれどもきっと、たとえそう言われても無駄だっただろうな。私自身が、その当時の自分を今のところはこれで充分なんてちっとも思っていなかったんだから。

       けれども、それでも。「今のままのあなたが好きだよ」と言われたかった。未熟な部分もすべてひっくるめて容認してほしかった。

       もしかして、本当は容認されていたのだろうか? 母に聞いてみればよかったと、たまに思う。

       女三宮の前にはある日「柏木」という男が現れた。夫である源氏はいつも、彼女を他の気のきいた女達と比べて、眉をひそめる。けれども柏木は、今のままの彼女が好きだ。ただ女三宮には、自分の意志というものがない。柏木の激情に巻き込まれた形で、不義密通は続いていく。

       だって、彼女はいつもいつもいつも、受け身で生きてきたのだもの。一方的に自分に注がれる愛情を受け止めて、愚鈍で幸せな子供として生きてきたのだもの。そして今ここに、再び何を要求するでもなく今のままの自分に無条件で愛情を注いでくれる人が現れてしまったのだもの。しかしながら、もし柏木が「意志を持たない人形」としての彼女を好きだったのならば、それはそれで不幸な話だとも思うのだけれど。

       とにかく、だから女三宮には最初、事態の深刻さがピンと来ないで、余計に源氏を苛々させたりする。彼女はまだまだ子供でしかなかったから。そしてやがて、柏木は病死、彼女自身は不義の子を産んだのちに出家という結末を迎える。その時やっと、受け身だけの子供ではなくなって。

       なんて痛々しいんだろう。
       「子供である」こと、「未熟である」こと自体が、罪とみなされてしまう世界に彼女は住んでいたのだ。
       本当の少女だったのに。
       本当の少女だったからこそ、人生が始まった途端に隠居させられてしまったのだ。

       光源氏なんかさ、出家した女三宮から送られてきた和歌を見て「今になってやっと少し深みのある歌を詠めるようになったなあ」なんて冷静に批評してるんだぜ。しばいたろか、と思いません? 私は思ったよ。

       未熟な私を認めてください。
       子供であることを許してください。
       とても不器用な私だけれど。
       まだ、私の人生はこれからなのだから。

       多分あの頃の私は、女三宮に自分を重ねていた。
       あの頃の私自身が、とても未熟で、とても受け身だったから。
       とても受け身だったから、たとえ他人に認めてもらえなくたって、自分自身で自分を好きになって認めてやることができれば、人間なんとか生きていけるものなんだってことに、気づいていなかった。だから、誰かに認めてほしくて仕方がなかった。

       まあ今は今で、あまりにも「自分が納得してれば他人にはどう思われてもいいのさ〜」という思想が強化されすぎちゃってるような気もするんだけどね。幸か不幸か、あの頃の私に柏木のような人が現れなかったおかげで。

       だけど今でも、「女三宮」を思うときりきりと胸が痛いのだ。
       あの頃の、ガキ以外の何者でもなかったのに「ガキでいることは許されない」と思い込んでた私自身を思い出すから。そして本当は今でも、未熟で不器用なガキの部分が自分のなかにたくさん残っていることを知っているから。

       それでさあ、例の古文教師。私が源氏の奥さんたちの中では女三宮に思い入れしてるって言ったら、女三宮をテーマにした何かの講演会のテープをダビングしてくれたんだよ。親切だと思うでしょう。ところがその講演ってのが、「いかに紫式部が女三宮をボンクラ女として描写してるか」って話。分かってねーよなあ。

       ま、今では懐かしい思い出ですわ。


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        Timmermans Lambicus Blanche(ティママン・ブランシェ)

        Timmermans Lambicus Blanche


        ベルギー・ビール。アルコール分4.5%。

        輸入元による日本語解説ラベルによると「ランビック(自然発酵)製法による唯一のホワイトビールです」とのこと。

        原材料は「麦芽、小麦、ホップ、コリアンダー、糖類、酸化防止剤(ビタミンC)」となっており、フルーツなどはまったく使われていないのですが、妙にフルーティというか、これ実はシードルなんだよ、と言われたら、うっかり信じてしまいそうな、さわやかな(ビール臭くない)淡い色と、甘酸っぱさ。酸味のあるビールOKな人に。
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          Koestritzer Schwarzbier(ケストリッツァー・シュワルツビア)

          Koestritzer Schwarzbier


          1543年創業のケストリッツァー醸造所で作られているドイツビール。

          ラベルによると、ゲーテが愛飲していたビールなのだそうです(当時と同じ味かどうかは知りませんが)。黒ビールにしては軽めな感じ? アルコール度数4.8%。
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